第4章
再び目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。
病室の外から、濱野和久の怒鳴り声が聞こえてくる。
「誰があいつを水に沈めていいと言った! 俺はただ、水に入らせて少し反省させたかっただけだぞ! お前ら、どういう仕事をしてるんだ? あいつにもしものことがあったら、ただじゃおかないからな!」
私は天井を見つめたまま、口の端だけで力なく笑う。
何を怒っているのだろう。ボディガードがあまりに忠実に命令を実行したから?
扉が開き、濱野和久が入ってくる。私が目覚めていることに気づくと、その表情は瞬時に怒りから心配へと変わり、足早にベッドサイドへ駆け寄った。
「目が覚めたか?」
彼が私の手を握ろうとしたので、私はそれを避けた。
彼の手は空中で強張り、行き場をなくして布団の上に置かれる。
「すまない。まさかボディガードがあそこまでするとは……」
私は顔を背け、窓の外を見つめたまま何も答えない。
「医者の話だと、あまり体調が良くないらしい。子供は……今回は諦めるしかないそうだ。手術は今日の午後に決まった」
彼は一呼吸置いて、続けた。
「だが心配するな。俺たちはまだ若いんだ。子供ならまたすぐにできる」
「その分、償いはちゃんとするから」
彼は身を乗り出し、私の肩を抱き寄せた。
「約束する。誰よりも盛大で完璧な結婚式を挙げてやるからな」
私は彼に抱かれたまま、声もなく涙を流した。
携帯の着信音が鳴る。
濱野和久は画面を一瞥し、眉をひそめた。
「悪い、急用が入ったんだ」
彼は私の額にキスをする。
「ゆっくり休んでくれ。午後には戻って、手術室まで付き添うから」
そう言い残し、彼は慌ただしく出て行った。
閉ざされた扉を見つめ、私は涙を拭うと、ゆっくりと上半身を起こした。
廊下から、看護師たちのひそひそ話が聞こえてくる。
「特別室のお嬢様、本当にツイてるわよね。ちょっとショックを受けただけなのに、彼氏さんがフロアごと貸し切りにしちゃうなんて」
「専門医を三人呼んで会診させたらしいわよ。やっぱり名家の令嬢は違うわね」
「はぁ、お金持ちの世界ってわかんないわ」
特別室のドアはわずかに開いていた。隙間から、中の様子が目に入る。
濱野和久がベッドの端に座り、リリを優しく抱きしめている。彼女は彼の胸に寄りかかり、顔色は青白く、瞼を赤く腫らしていた。
「お姉ちゃんは悪くないの……」
リリがか細い声で言う。
「わざとじゃないってわかってるし、だからお姉ちゃんを責めないで……」
「わかってる。全部わかってるよ」
濱野和久は彼女をあやすように囁く。
「医者も、精神的なショックを受けただけだから大事はないと言っていた。それに……さっき聞いたんだが、妊娠しているそうだな」
リリがゆっくりと顔を上げる。その瞳は潤んでいた。
「でも……あの日はただの事故で……二人とも酔ってたし……もし和久さんがこの子を望まないなら、私……」
「よせ」
濱野和久は彼女の手を握りしめ、数秒の沈黙の後、口を開いた。
「手筈は整えてある。今日の午後、優希に堕胎手術を受けさせる。その後……君が無事に出産したら、海外で静養させよう。生まれた子供は優希の養子にすればいい。そうすれば丸く収まる」
「でも……」
リリが躊躇う。
「安心しろ、君には辛い思いはさせない。そもそも、俺が蒔いた種なんだから」
リリは彼の肩に頭を預ける。その瞬間、私は見てしまった。彼女の口元に浮かんだ微かな笑みと、掌に食い込むほど握りしめられた指先を。
そういうことか。
彼が私に堕胎を迫ったのは、子供が助からないからじゃない。
リリの子供のために場所を空けるためだったのだ。
あまつさえ、私にリリの子供を育てさせる計画まで立てているとは。
なんて完璧な計画だろう。いつだって、犠牲になるのは私だけ。都合のいい道具として。
「そうだ」
濱野和久が不意に言った。
「ここ数日、会社の方で動きがあるかもしれない。だから今日の午後、君と簡単な結婚式を挙げてしまおうと思っている」
「そんなに急に?」
リリが驚きの声を上げる。
「ああ。君の父親の動きが読めないからな。また気が変わられたら面倒だ。全ての手筈が整っている今のうちに、早めに決めてしまったほうがいい」
その後、彼らが何を話していたのか、もう耳には入らなかった。
耳鳴りが止まらない。私は自分の病室に戻り、ベッドの端に腰掛け、膝を抱えた。
しばらくして、濱野和久が戻ってきた。
「すまない、急用が長引いてしまって」
彼は私の手を握る。
「午後二時に看護師が迎えに来る。手術の間も、ずっとそばにいるからな」
彼は私を慰めているつもりなのだろう。自分がまだ、私に深く愛されている男だと信じ込んでいるのだ。
「わかったわ」
私が小さく答えると、彼は安堵の息を吐き、いくつか慰めの言葉を並べてから、そそくさと部屋を出て行った。
きっと、彼自身の結婚式の準備に行くのだろう。
二時少し前、主治医がノックをして入ってきた。
「古見さん、再検査の結果、少し状況が変わりまして……手術は一旦見送り、数日入院して様子を見ることをお勧めします」
私は力なく微笑んだ。
「和久にそう言えと言われたのですか?」
医師の表情が凍りつく。
私は静かに告げた。
「構いません。でも、私は手術を受けたいのです。今日、今すぐに」
「しかし、濱野様が……」
「彼も同じ考えのはずです」
私は言葉を遮った。声は震えそうになるのを必死で抑えていた。
「どのみちこの子は、誰にとっても不要な存在なのですから。……先生、お願いします」
医師は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わず、重々しく頷いた。
二時きっかりに、看護師がストレッチャーで迎えに来た。
手術はあっという間で、痛みすらほとんど感じなかった。
目が覚めると、病室には私一人。サイドテーブルには小さな箱が置かれていた。
胎児の遺骸を収めるための、病院から渡された箱だ。
小さくて、軽くて。まるで最初から何も存在しなかったかのように。
私は箱をきつく抱きしめ、声も出さずに泣いた。
「ごめんね……ママが守ってあげられなくて、ごめんなさい」
病室を出た私は、振り返ることはなかった。
父が新しい携帯電話と番号を用意し、裏口に運転手を待機させてくれていた。
私は私服に着替え、あの小さな箱と、会話を録音した古い携帯電話を抱え、ひっそりと病院を後にした。
空港へ向かう車中、運転手がラジオをつける。
ニュースキャスターの声が流れた。
『本日午後、濱野家の長男と古見家の次女が、市中心部にて挙式を行い――』
私は窓の外へ目をやる。かつて、この街は私の家になるはずだった。あの男こそが、私の帰る場所だと信じていた。
けれど今、すべては滑稽な笑い話でしかない。
空港に到着すると、私は小さな箱と携帯電話を運転手に託し、搭乗ゲートへと向かった。
あれは、結婚式が最高潮に達した頃、彼の手元に届くだろう。
私から彼への、最初で最後の贈り物。
そして、私たち自身の決別。
これでもう、二度と会うことはない。
