第3章

 文太はなおも私の目の前で、私を責め、嘲笑っていた。

 その甲高い声は、この十年の間、絶えず私の耳元で響いていた。

 十年間の悔しさ、屈辱、そして忍耐、そのすべてがこの瞬間に爆発した。

 私は冷たい眼差しで文太を見据える。

「高橋賢治、あなたを相手にする力は私にはない。でも、六歳の子供を相手にするくらいなら、わけないわ」

 私の声は、自分でも知らないほど冷え切っていた。

 文太は目を大きく見開き、信じられないといった様子で私を見つめた。

「お母さん?」

 その目は高橋賢治と瓜二つだった。驚きの中に軽蔑を滲ませたその表情は、まるで「よくもそんなことを」と語っているかのようだ。

 それが、私の決意をより一層固めさせた。

「そこをどいて、時空トンネルを通らせるか……」

 私は一歩前に詰め寄る。

「……あるいは、その結果を受け入れるか」

 文太は数歩後ずさったが、依然として入り口を塞いでいる。その小さな顔には不信感が満ちており、自分の母親が自分を傷つけるはずがないと、心の底から信じているのが表情から見て取れた。

 なんて滑稽なのだろう。

 この歪んだ世界で、私はとっくにあの十七歳の吉原明里ではなくなっていた。

 私はもう、家に帰るのを待ちくたびれていたのだ。

 もはや躊躇いはなかった。ずっと身につけていたカッターナイフを取り出し、文太の顔めがけて切りつける。その刃先が彼の幼い肌に触れようとした瞬間、一本の腕が乱暴に私の手首を掴んだ。

 高橋賢治がいつの間にか私たちの背後に現れ、力ずくで私の手を逸らした。カッターナイフは空を切り、それでもなお、文太の頬に細い一筋の切り傷を残した。

 傷口から血が滲み出る。

 文太は一瞬呆然とし、それから声を上げて泣き出した。

 高橋賢治はすぐに息子を抱きしめ、ハンカチで傷口を押さえながら、その目に驚愕と嫌悪を満ちていた。

 彼は怒りに任せて罵る。

「なんて非情な女だ!」

 非情?

 私は笑った。

 この父子ほど非情な人間がいるだろうか。

 彼らの注意が逸れた一瞬の隙を突き、私は冷ややかに二人を見つめながら、踵を返して時空トンネルへと駆け出した。

 システムが私の頭の中で絶叫する。

【何をしましたか? 攻略値が下がっています!】

「黙れ」

 私は低く応え、足を止めない。

 意識が朦朧とし始め、体がトンネルに吸い込まれる最後の瞬間、背後で文太の叫び声が聞こえた。

「お母さん! だめ、行かないで!」

 その声には恐怖と絶望が混じっていたが、もう遅い。

 私の体は時空トンネルに飲み込まれ、意識は次第に遠のいていった。

 ようやく、家に帰れる。


 目が眩むほどの白い光の中、天地がひっくり返るような感覚に襲われた。

 再び目を開けた時、視界に飛び込んできたのは真っ白な天井と消毒液の匂い。私はベッドに横たわっており、周りは見慣れているようでどこか懐かしい病院の一室だった。

 ベッドの前には、私が恋い焦がれてやまなかった家族が立っていた——父さん、母さん、幼馴染の矢野将矢、そして親友の渡辺千花。皆、心配そうに私を見つめ、その目には憂いが満ちている。

 母さんは私が目を開けたのを見ると、すぐさま嬉しそうに叫んだ。

「明里が目を覚ましたわ!」

 そう言って、慌ただしく医者を呼びに部屋を出て行った。

 父さんは私の手を握り、声を詰まらせた。

「この子は、高校の合格通知を受け取るだけで倒れるなんて。丸十日間だぞ、父さんと母さんがどれだけ心配したか」

 十日間? 私は心の中で計算する。並行世界での十年は、ここではたったの十日しか過ぎていなかった。

 その事実に、私は異常なほどの喜びを感じた。

 少なくとも、あの吐き気のするような世界に、多くの時間を奪われずに済んだのだ。

 矢野将矢が私に近づき、真剣な顔で尋ねる。

「他にどこか気分が悪いところは? 体に異常な感じはする?」

 渡辺千花は半ば冗談めかして言った。

「もしかして、並行世界にでも行ってたんじゃない?」

 何度想いを馳せたかわからない人たちが突然目の前に現れ、私は思わず目頭が熱くなった。

「大丈夫」

 無理に笑顔を作ろうとしたが、突如として感情の制御が利かなくなり、わっと泣き出してしまった。

 涙は堰を切った洪水のように溢れ出し、十年分の悔しさと恋しさが一瞬にして爆発した。

 私はしゃくり上げながら言う。

「大丈夫、ただ、みんなにすごく会いたくて。本当に、すごく会いたかったの」

 渡辺千花は呆気に取られていたが、やがて私の肩を優しく叩いた。

「私たちの明里は、まだ大人になりきれてないみたいね」

 そう、この世界では、私はまだ十七歳の高校生。あの十年間の悪夢も、あの六歳の息子も、あの冷酷な夫も、すべてが遠い夢のようだ。

 でも、それが夢ではないことを私は知っている。あの傷跡と記憶は、永遠に私の魂に刻み込まれているのだから。


 深夜、病室には母さんだけが付き添ってくれていた。彼女は私の髪を優しく撫でながら、穏やかに言う。

「うちの明里も大人になったのね。悩み事があっても、母さんには教えてくれなくなったわ」

 私は答えず、ただ母さんの胸に顔を埋め、十年ぶりに感じる母の愛の温もりに身を委ねた。

 この感覚はあまりにもリアルで、あの並行世界の苦痛を忘れさせてくれるかのようだった。

 意識が次第に薄れていく中、聞き覚えのある電子音が突如、私の脳内に響き渡った。

【吉原さん。】

 私の目はカッと見開かれ、全身から冷や汗が噴き出した。いや、ありえない! 私は間違いなく帰ってきたはずだ!

 恐怖が潮のように押し寄せ、呼吸が苦しくなる。

 システムは消えていなかった。私と一緒に、こちらへ帰ってきていたのだ。

 この悪夢は、まだ終わっていなかった。

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