第1章
「鷹司京介、私を娶って」
冷えきった女の声が、厳粛な葬儀の空気を真っ二つに裂いた。
すすり泣いていた参列者たちの息が、ぴたりと止まる。悲しみと悔恨に沈んでいた視線が一斉に持ち上がり、信じられないものを見る目で少女を捉えた。空気が凍りつく。ただ、その抑揚のない声だけがホールの天井に、澄んだまま反響する。
鷹司京介がはっと振り向いた。人垣の中央に立つ少女へ視線を刺し、赤く充血した瞳で唸る。
「今、なんて言った……もう一回言え!」
北条千雪は黒いロングドレスのまま、静かに立っていた。品定めするような視線を浴びても微動だにせず、機械みたいに繰り返す。
「あなたに、私を娶ってほしい」
言い終えるより早く、平手が飛んだ。
左頬が強く弾かれ、顔が横に折れる。それでも彼女は抵抗もせず、動きもしない。叩かれるままに受け止めた。
双子の姉の葬儀で、妹の北条千雪が、姉の婚約者にそんな恥知らずな言葉を突きつけたのだ。
北条涼子の手が狂ったように震える。
「お姉ちゃんに顔向けできるの!? それは、お姉ちゃんの婚約者よ!」
頬を押さえたまま、崩れ落ちるように怒鳴った。
「産まなきゃよかった! なんで死んだのがあんたじゃないの!? どうしてよ!」
周囲から、低い嘲りが漏れる。
「実の姉が死んだのに、涙ひとつ出さないなんて……冷血すぎる」
「ほんと。まだ数日なのに、もう姉の婚約者を奪う気かよ」
鷹司京介は拳を強く握りしめ、歯を噛み締めるように言った。
「北条千雪、お前に心ってもんはないのか」
「お前さえいなけりゃ、今日は俺と睦月の結婚式だった。なんで死んだのがお前じゃない!」
――そうだ。どうして死んだのが私じゃないんだろう。
北条千雪はぎこちなく顔をそらした。祭壇の位牌、その横の遺影。自分とよく似た面差しの少女が、眩しいほどに笑っている。三日前の大火事など、ただの夢だったかのように。
三日前。
突然の火が、二人を家の中に閉じ込めた。北条千雪は気を失った。
朦朧とする意識の中で、頬に何かが当たる感触がした。姉が、唯一の防毒マスクを彼女に押し当てたのだ。
止めなきゃ。そう思っても、喉は焼けつくように乾き、声が出ない。身体には力が入らず、ただ涙をこぼしながら首を横に振ることしかできなかった。
やめて……お願い、お姉ちゃん……やめて……!
北条睦月は、笑ったように見えた。首を振り、幼い頃と同じように、温かく力強く千雪の手を握りしめる。そして、かすれた声で言った。
「千雪、私のぶんまで生きて。……あなたも京介のこと、好きなんでしょ。だったら、私の代わりに……ちゃんと、愛して」
目が覚めた時、皆が告げた。北条睦月は死んだ、と。
胸の奥で痛みが暴れ、針で刺されるみたいに息ができない。身体が生きたまま引き裂かれるようだった。
お姉ちゃん、痛いよ。
けれどもう、手を握ってくれる人はいない。
「怖くない、お姉ちゃんがいる」
そう言ってくれる人も。
――もう、姉がいない。
底なしの悲しみと罪悪感が胸を満たし、北条千雪はゆっくりと息を吸い込んだ。そして、もう一度言う。
「鷹司京介、私を娶って」
鷹司京介の全身から、冷気が噴き出した。北条千雪を睨み据え、しばらくしてから、ぞっとするほど歪んだ笑みを作る。
「そこまで執着するなら、望みどおりにしてやる」
彼は彼女の脇で足を止め、陰鬱な眼差しで言い捨てた。
「千雪、よく覚えとけ。これから先、何が起きても全部――自業自得だ」
肩を乱暴にぶつけ、目もくれずに去っていく。
それでも北条千雪だけが、その場に固執するように立ち尽くしていた。
衝撃で肩がじんと痛む。それでも動けない。
後悔、途方のなさ――息の通らない網に絡め取られたみたいに、苦しい。
どれほど立っていたのか。夜が更け、朝が来て、また夜になる。繰り返し、繰り返し。
一週間後。鷹司京介と北条睦月のためのはずだった結婚式は、花嫁だけがすげ替えられた。
広い式場にいるのは、わずかな人間。北条克己も北条涼子も来ない。花もない。司会もいない。
叩きつける雨粒が、一滴、また一滴、頬を打つ。
頬を濡らしているのが雨なのか涙なのか、北条千雪には分からなかった。北条睦月が前もって手配していたウェディングドレスを着て、背筋を伸ばし、一歩一歩、前へ進む。
誰が最初に投げたのか。
腐った卵が身体にぶつかり、ぬめついた液が頭から流れ落ちる。鼻を刺す悪臭が会場に広がった。
足が宙で止まる。唇を噛み、北条千雪はもう一度、決意するように足を下ろした。雨と一緒に、汚れが頬を伝って落ちる。
「気持ち悪っ。姉の婚約者奪うとか、人間じゃないだろ!」
「姉はこいつ助けて死んだんだろ? 良心の欠片もない。自業自得!」
卵は次々に投げつけられた。それでも彼女は外界の感覚を失ったように、瞬きすらせず、ひとりで式場を歩き切る。
口を開き、声にならないまま言った。
――私は、誓います。
お姉ちゃん、新婚おめでとう。
これからは、私があなたの代わりに生きる。
帰宅すると、北条千雪はドレスを脱ぎ、丁寧に洗い、汚れを一つ残さず落とした。
そして五時から夜十二時まで、ただ座って、時間が削れていくのを見つめ続けた。
翌日の深夜。
鷹司京介が酒臭い息を吐きながらドアを開け、北条千雪を見るなり眉をひそめる。
「誰が入れって言った」
「私は今、あなたの妻です」北条千雪は目を伏せる。「酔い覚ましのスープを……少し飲んで」
差し出そうとした瞬間、手が払われた。
器が傾き、熱いスープが全身に浴びせかけられる。皮膚が裂けるように灼けた。
それでも彼女の表情は淡いまま。
北条千雪はしゃがみ、黙って割れたガラスを拾い集める。
鷹司京介が唇を吊り上げ、冷えた笑いを落とした。
「痛いか? 睦月はお前の千倍、万倍痛かった。医者がなんて言ったか知ってるか。重度熱傷だ。全身の皮膚が、ただれて――」
言葉の一つ一つが、胸の奥に突き刺さる。
指先が震え、北条千雪は歯を食いしばり、涙を押し戻そうとした。
姉は、生まれつき美しいものが好きだった。
焼ける時、どれほど痛くて、どれほど怖かっただろう。全身が焼けて、それなのに自分は無傷で、傷ひとつない。
あの時、姉は何を思っていたのだろう。
北条千雪は目を閉じた。唇が震え、涙はもう音もなく落ちていた。
鷹司京介はその死に損ないみたいな姿に、怒りを抑えきれなくなる。
足を上げ、彼女を砕けたガラスの上へ蹴り飛ばした。
細かな破片が皮膚に刺さり、血が滲む。北条千雪は表情を変えず、冷めたまま破片を拾い続ける。
指が切れて血が噴いても、痛みがないみたいに、ただ、黙々と。
鷹司京介の声は、氷のように冷たかった。漆黒の瞳が、ゴミを見るように彼女を見下ろす。
「睦月はずっと身体張ってお前を守ってた。お前はどう返した? 千雪、お前の命は睦月の命だ。よく覚えとけ。これから受ける全部――お前が受けるべき報いだ」
「生きろ。……俺は、お前が俺と結婚したことを後悔させてやる」
鷹司京介は彼女を乱暴に引き起こし、ベッドへ押し倒す。容赦なく、粗暴に、侵入した。
体内が裂ける痛みに、北条千雪は目を見開く。視界の端で、ベッドサイドの北条睦月の写真と目が合った。
北条睦月は、薄く微笑んでいる。
頭から冷水を浴びせられたように、全身が冷え切った。北条千雪は必死に抵抗し、涙が大粒で落ちる。
「や……やだ……やめて……!」
胃がひっくり返る。痛みが頭頂から臓腑へ突き抜け、身体が二つに裂けるようだった。顔色は真っ青で、残っていた血の気が叫びとともに消える。
鷹司京介は髪を掴み、乱暴に言う。
「これが望みだったんだろ!」
耳の奥が「キーン」と鳴り、やがて何も聞こえなくなった。
皆が言う。どうして死んだのがお前じゃないのか、と。
でも誰も知らない。北条千雪が、誰よりもそれを問い続けていることを。
お姉ちゃん、どうして……。
どうして……死んだのが、私じゃないの……。
一滴の涙が、静かに頬を滑り落ちる。
北条千雪は力なく首を垂れた。心臓が、手で抉り取られたみたいに痛い。
――死んだのが私なら、よかったのに。
