第4章 お前はとっくに死ぬべきだった
北条涼子はコートの襟元をきゅっと寄せ、北条千雪に冷たい白目を向けた。
「義兄さんを奪ったクズが、何しに戻ってきたのよ」
北条千雪は反射的に二歩、退いた。姉がいないこの場所は――もう、家じゃない気がした。
その様子が癇に障ったのか、北条涼子はますます不機嫌になる。手にしていた汁椀を置き、獲物でも睨むみたいに千雪を見据えた。
「帰ってきて何の用? まだ私たちに恥をかかせ足りないってわけ?」
千雪は買ってきた果物を玄関脇にそっと置き、俯いたまま、掠れた声を絞り出す。
「……会いに来ただけだよ、母さん」
言い切るより早く、北条涼子は隣にいた少女を抱き寄せ、機嫌よく声を弾ませた。
「茉優、気にしないで。今日はあなたの好きなの、わざわざ作ったんだから」
篠原茉優は甘えるように北条涼子の胸に頬を寄せ、涼子は声を上げて笑う。
二人の世界が出来上がってしまって、千雪はまるで透明人間だった。手伝おうと一歩踏み出した、その瞬間――
ガシャン。
皿が床に落ち、粉々に砕け散った。
北条涼子の視線が一気に尖る。
「何やってんのよ。皿ひとつまともに持てないの? それ、睦月が私にくれた大事なやつなんだから」
そして乱暴に千雪を押しのける。千雪はよろめき、喉の奥に石でも詰まったように息が苦しくなった。
――それ、私が贈ったんだ。
言えるはずもない。千雪は黙ってしゃがみ込み、破片を拾い集めた。
耳元で、茉優の澄んだ声がする。
「お母さん、大丈夫? 手、切ってない?」
北条涼子は嬉しそうに笑った。
「平気よ。やっぱりうちの茉優は気が利くわ。この子がそばにいてくれなかったら、私……睦月のところへ行っちゃってたかもしれないもの」
「ほんと、あの子は馬鹿よね。命を投げ出して助けたのが、恩知らずだなんて」
破片が掌に刺さった。ぷつり、と熱いものが溢れ、血が指の間を伝う。
千雪は掌をぎゅっと握りしめ、それでも無感情に拾い続ける。痛みで視界は滲むのに、口の端だけがわずかに持ち上がった。
こうして痛みに沈んでいる時だけ、少しだけ静かになれる。罪悪感が、ほんの少し薄まる気がした。
姉を死なせたのだから。
痛みと罵倒の中で生きるのが、償いなのだ。
拾い終えると、千雪は洗面所で手を洗い、汚れた布で拭ってから、黙って廊下へ出た。
食事はすでに終わっていた。テーブルの上には残り物と食器が散らかり、空気には脂っこい匂いがねっとり絡みつく。
北条克己が気まずそうに咳払いをして、言い訳めいた声を出す。
「母さんのことは気にするな。まだ気持ちが整理できてないんだ」
「茉優はお前の従姉だ。お前の叔母が出産で亡くなってな……それで、うちで育ててきた。睦月と一緒に大きくなったんだ」
「前にお前が戻った時は、留学中で会えなかっただろ。仲良くしてやってくれ」
千雪は機械みたいに顔を上げ、ぎこちない笑みを貼りつけた。
「父さん。母さんが幸せなら……私、死んでもいい。心からそう思う」
克己は目を見開いたが、結局それ以上は踏み込まない。
「先に飯を食べろ。片づけはあとで家政婦が来る」
その時、茉優がふわりと近づき、可愛らしく笑って言った。
「お父さん、家政婦さん今日お休みなんでしょ? 私、洗い物しようか?」
そう口では言いながら、手を動かす気配はない。笑顔のまま、千雪を見ているだけだ。
ソファに座る北条涼子が、甲高い声で言い放つ。
「茉優にやらせるわけないでしょ。こいつにやらせなさい。鷹司家の奥様になったからって、うちで偉そうにできると思うな」
「洗濯室に服が山ほどある。全部洗って。床も拭いておきなさい」
千雪は俯いたまま台所へ向かい、積み上がった皿を黙々と洗った。
床を拭き、洗濯物まで片づけ、ようやく息をつけた頃――茉優の弾む声が響いた。
「お母さん、いい知らせ。昨日、就職決まったの。鷹司京介のところで秘書」
克己も嬉しそうに相槌を打つ。
「それはいいな。千雪、帰ったら京介に頼んで、茉優に楽な仕事を回してもらえ」
鷹司京介。
その名前だけで、千雪の指が止まった。顔を上げ、茉優を見つめる。
胸の底が、ずしんと沈む。
茉優が――鷹司京介の秘書。
姉に似た顔。姉と同じ服の趣味。気づかないはずがない。
不意に手を掴まれた。見上げれば、茉優が笑っている。
「ねえ、千雪。鷹司京介って、嫌いなものとか趣味とかある? 明日から私、彼の直属の秘書なの」
「本当は別の人だったんだけど、どういうわけか鷹司京介が直々に指名してくれて。専属で、って」
恥ずかしそうに笑いながら、握る力がじわじわ強くなる。爪が肉に食い込み、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
千雪は反射で手を振り払う。
茉優がわざとらしく床に倒れ、北条涼子の腕に縋りついた。
「お母さん、違うの。妹のせいじゃない。私が鷹司京介の話をしたのが悪いの……だって、千雪は睦月の婚約者を奪ったんだもん。そんな話、されたくないよね」
北条涼子が勢いよく立ち上がる。
パァン。
平手が千雪の頬を打った。怒りが収まらないのか、腕をきつくつねり上げる。
「お前は誰も彼も不幸にしないと気が済まないの!? 茉優が一言聞いただけで手を出すなんて、この腹黒い奴!」
千雪は痛みに身を丸め、涙を溜めた目で首を振る。
「違う……母さん、私、やってない……」
涙が見えた途端、北条涼子はさらに苛立ったように足を振り上げる。
「さっさと茉優に謝りなさい!」
助けを求めるように克己を見る。けれど彼も、失望の目で立っているだけだった。
「いつからそんなに意地悪になった。男のために家族も捨てるのか」
「謝れ。それで終わりだ」
心が、枯れ葉みたいにくるくる舞って落ちていく。
千雪は立ち上がり、ふらつきながら茉優に頭を下げた。
「……ごめんなさい」
そして振り返りもせず北条家を飛び出した。白い雪の中へ踏み出す。薄いニットワンピース一枚の身体は、すぐに芯まで凍えた。
肩に雪が積もる。千雪はただ、一歩ずつ前へ進む。心はもう、粉々だった。
「あなた、家はどこ? そんな薄着で……風邪ひいちゃうよ」
ふわり、とマフラーが首にかけられた。
振り向くと、白髪の老婦人が心配そうに覗き込んでいる。
老婦人は自分の綿入りのベストまで脱ごうとして、急かすように言った。
「寒いんだから。嫌じゃなければ、うちで少し休みなさい。暖炉があるから、すぐ温まるよ」
千雪はその手を握り、掠れた声で止めた。
「……大丈夫です。おばあさん」
凍えた頬に、かすかな笑みが浮かぶ。胸の奥が、少しだけ温かくなった。
姉が亡くなってから、こんなふうに気にかけられたことなんてなかった。
誰もが彼女を嫌悪し、蔑み、殴ろうとする者さえいた。
涙がつうっと頬を滑り、顎先から落ちる。
千雪は俯いたまま老婦人の手を握り、嗚咽混じりに首を振った。
「ありがとう……でも、私が悪いんです。私、生きてちゃいけない」
冬の温もりを受け取る資格もない。
誰の好意も受け取ってはいけない。
苦しみの中で、抜け出せないまま償うべきだ。
老婦人はゆっくり涙を拭い、穏やかに言った。
「何だって、いつかは過ぎていくよ。あなたはいい子だ。そんなふうに自分をいじめないで」
「さあ、うちにおいで。少し温まろう」
次の瞬間、黒い傘が雪を裂いた。
鷹司京介が大股で近づいてくる。斜めに降る雪が、黒いスラックスを濡らしていく。
「お前は、とうに死んでるべきだった」
