第3章

 救急隊員が折れた私の足を固定し始めた。

 添え木が締め付けられた瞬間、骨の髄まで響くような激痛に、私は思わず短い悲鳴を上げた。

「気をつけろ!」

 綾人がすかさず制止する。

「乱暴に扱うな」

 彼は救急隊員を押しのけ、自ら手当てを代わった。

 その動きは驚くほど優しく、かつ手際が良い。明らかに専門的な救急訓練を受けていた。

 真剣な彼の横顔を見つめていると、不意に喉の奥がぎゅっと締め付けられた。

 こんなふうに労わってもらったのは、いつ以来だろう。

 大切に扱われるこの感覚が、かえって前世の苦しい記憶を呼び覚ました。

 結婚して二年目、佐代子の命日のことだった。英男はずぶ濡れになって浅見の屋敷に帰ってきた。彼は佐代子の墓へ行き、冷たい雨の中で一晩中立ち尽くしていたのだ。

 私は彼を案じ、気遣うように歩み寄った。

「英男さん、ひどく濡れているわ。私が――」

 その瞬間、彼は感情を爆発させ、私を強く突き飛ばした。

 バランスを崩した私は床に激しく打ち付けられ、ローテーブルの角に腹部を強打した。焼け付くような痛みが走り、お腹を押さえて呻き声を上げた。

 だが、英男は冷酷に見下ろしたまま、歯を食いしばって言い放った。

「俺の前で芝居をするな! お前があの忌々しいキャンプを無理に計画しなければ、佐代子が死ぬことはなかったんだ!」

 私は信じられない思いで彼を見つめ、涙を溢れさせた。

「私はただ、あなたに息抜きをしてほしかっただけで……それに、キャンプに行きたいと言い張ったのは佐代子自身よ、あなただって――」

「俺がなんだって?」

 彼は冷笑した。

「俺が知らないとでも思っているのか? あのヘリコプターの燃料パイプには細工がされていた。お前の西野家が方々に恨みを買っていなければ、佐代子が危険な目に遭うはずがなかったんだ!」

「何を馬鹿なことを言っているの?」

 私は涙を堪えた。

「そんなに私のことが憎いのなら、離婚しましょう!」

「離婚だと?」

 彼は鼻で笑った。

「あれほど手練手管を使って俺と結婚したくせに、今さら離婚したいだと? ふざけるな」

 彼の視線はナイフのように私を切り裂いた。

「佐代子の死の代償は、きっちり払ってもらうからな!」

「でも、私を選んだのはあなた自身――」

「黙れ!」

 彼は怒鳴りつけ、踵を返して乱暴にドアを閉めた。

「お前を助けたことこそ、俺の人生最大の過ちだ!」

 冷たい床の上に一人取り残され、涙がとめどなく溢れ出た。その時、ふいに下半身に生温かいものを感じた。出血していた。

 その瞬間、私は自分が妊娠していたことに気がついた。だがもう……私たちは初めての子供を失ってしまった。

 そして彼は、その事実を知りもしないし、気にかけることもないのだ。

「まだ痛むか?」

 綾人の声が、私を現実へと引き戻した。

 私は懸命に涙をこらえ、手のひらに爪を立てた。深呼吸をして、無理やり心を落ち着かせる。

「ありがとう……いろいろと」

 声は少し震えてしまったが、すぐに持ち直した。

 綾人は顔を上げ、その瞳に何かの感情を走らせたが、それは一瞬で消え去った。

「気にするな」

 彼は立ち上がった。

「さあ、ここから離れよう」

 彼の助手がすぐに歩み寄った。

「宮内様、そのお怪我では危険です。私が――」

「自分でやる」

 綾人は助手の言葉を遮った。

 彼は背を向けてしゃがみ込み、自分の背中に乗るよう私に促した。怪我をした私の足に触れないよう、慎重に姿勢を調整してくれる。その細やかな心遣いに、胸の奥が温かくなり、同時にひどく痛んだ。

「しっかり掴まっていろ」

 そう言うと、彼は立ち上がり、山を下り始めた。

 手はひどい怪我を負っていて、絶対に痛むはずなのに、彼の足取りは力強く安定していた。背中に身を預けていると、肩の筋肉の動きがはっきりと伝わってくる。

「早く下山しよう。ご両親もさぞ心配しているだろう」

 『両親』という言葉を聞いて、私は自嘲気味に笑った。

 心配? あの人たちは、助かったのが佐代子だったことを喜んでいるに違いない。

 前世では、佐代子の死をきっかけに、私は両親と一生分かり合えることはなかった。それどころか、彼らは英男の側に立ち、西野グループにおける私の地位を少しずつ奪い取る手助けをしたのだ。

 結局、英男はまんまと会社を乗っ取り、私はすべてを失った。

 私は何も答えず、ただ綾人の広い背中にそっと額を押し当てた。

 彼は一瞬だけ体を強張らせたが、何も言わなかった。

 シャツ越しに伝わる彼の体温。そして、規則正しい心音――それは静かで、とても力強かった。

 この見ず知らずの人がくれる温もりは、私の家族がくれるそれよりも、ずっと大きくて確かなものだった。

 夕日が私たちを照らし、黄金色の輪郭を描き出す。曲がりくねった山道でも、彼の歩みは決して揺らがなかった。

 ふと、この道がもう少し長ければいいのにと思った。

 あと少しだけ、このままで。

 しばらくの沈黙の後、私は思い切って口を開いた。

「綾人さん……そう呼んでも構いませんか?」

 彼は少し驚いたようだった。

「ああ、構わない」

 私は深く息を吸い込み、勇気を振り絞った。

「もし図々しいお願いでなければ……私たち、友達になれませんか?」

 綾人はぴたりと足を止めた。

 数秒の沈黙が下り、気まずい空気が流れる。心臓が早鐘を打ち、ひどく緊張した。

 やがて、彼がゆっくりと口を開く。

「友達には、なりたくない」

 胸の奥が冷たく沈んだ。

「あっ……ごめんなさい。そういうつもりじゃ――」

「そういう意味じゃない」

 彼は慌てて弁解し、不意に振り返った。

 私たちの顔が、ぶつかりそうなほどに近づいた。

 彼の息遣いを感じるほどの距離。温かい吐息が私の唇をかすめる。

 二人とも、言葉を失った。

 彼の瞳孔がわずかに収縮し、喉仏が動くのが見えた。私の心臓は狂ったように跳ね回り、頭の中は真っ白になった。

 空気が凍りついたかのようだった。

 ほんの数秒の沈黙が、一世紀にも感じられた。

 先に視線を逸らしたのは綾人だった。

 声は少し低くなっていた。

「つまり……友達という定義では、少し窮屈だと言いたかったんだ」

 再び歩き出し、話題を変える。

「だが、助けが必要な時はいつでも頼ってくれ」

 私は彼の背中にしがみついたまま、熱くなった頬を隠した。心臓の鼓動はまだ落ち着かない。

 今の瞬間……。

「ありがとうございます、綾人さん」

 私は小さな声で呟いた。

 ふもとの臨時救護キャンプは、眩いほどの光に包まれていた。

 ヘリコプター、救急車、消防車、そして無数の救助機材と行き交う人々。

 綾人が私を背負ってキャンプに入ると、周囲の救助隊員たちが一斉に好奇の目を向けた。

 その時だった。

「かすみ! ああ神よ、かすみ!」

 聞き覚えのある声に、私の体は硬直した。

 英男だった。本格的な救助装備に身を包み、後ろには一隊を引き連れている。まるで今まさに山へ捜索に向かうところだったかのように、土埃にまみれていた。

 私を見つけると、彼はこれ以上ないほどの喜びを顔に張り付け、真っ先に向かってきた。

「かすみ! 無事で本当によかった! 俺もすぐにお前を助けに戻るつもりだったんだ!」

 彼は手を伸ばし、私を受け取ろうとした。

 綾人は体をひねってそれを避け、冷ややかな視線を向ける。

「降ろして」

 綾人は私がしっかりと立てるように支えてくれた。足はまだ痛んだが、私は歯を食いしばって耐えた。

 私は英男を見据え、皮肉な笑みを浮かべた。

「本当に? 確かあなたは、すぐに助けに来ると言っていたわね」

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