第2章
氷上颯はさっと顔色を変えると、ほとんど迷いもなく氷上辰也を相葉栞里に預け、踵を返して外へ向かった。
「栗山加奈の具合が悪い。様子を見に行ってくる」
相葉栞里は、慌ただしく消えていく背中を見送った。――不思議なくらい、胸は静まり返っていた。
こんな光景が、この一年で何度あっただろう。もう数えられない。
最初は深夜の電話だった。眠りを裂く着信音。隣の男がコートを掴み、玄関へ駆けていく気配に目を覚ます。
やがてそれは、家族の食卓の途中退席になり、辰也の保護者会の欠席になり、彼女が高熱で病院にいる夜の、誰にも頼れない孤独になった。
――人は、心が死んでしまえば、痛みすら感じなくなる。
ぶるん、と車のエンジンがかかる音。遠ざかっていくタイヤの擦れる気配。リビングはまた、しんと静寂に沈んだ。
相葉栞里は息子を小さなベッドへ寝かせると、寝室へ戻った。
クローゼットを開け、奥に押し込まれていたスーツケースを引きずり出す。薄く積もった埃が、ふわりと舞った。
結婚したときに買ったものだ。五年――一度も使わなかった。
彼は彼女と旅に出たことはないのに、栗山加奈とは国内も海外も、景色を見尽くすほど歩いている。
このスーツケースも、ようやく出番が来たというわけだ。
古い服を数着。身分証。あとは、色褪せたアルバムを数冊。
五年の結婚で、持っていけるものなんて、それだけだった。
窓の外が白みはじめる。午前5時半。
ファスナーを最後まで引き、相葉栞里は寝室を振り返った。
ベッドサイドの棚には、氷上颯との結婚写真。写真の中の自分は眩しいほど笑っていて、珍しく氷上颯も笑っている。
あの頃の彼女は、本気で信じていたのだ。隣の男と、一生添い遂げるのだと。
唇の端に、苦いものが滲む。
スーツケースを提げ、相葉栞里は迷いなく部屋を出た。
――のに。
子ども部屋の前で、足が勝手に止まってしまう。
扉を見つめるだけで、胸の奥がじくじく痛んだ。
立ち止まるべきじゃない。行くと決めたなら、振り返るべきじゃない。
それでも、どうしても名残があった。辰也は自分の子で、五年、甘やかし、五年、愛してきた子だ。
そっと扉を押す。
氷上辰也は丸くなって眠っていた。布団は蹴飛ばされ、白い小さな足がひょこんとのぞいている。
相葉栞里は近づき、布団をかけ直した。寝顔を見つめた瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
眉と目元は氷上颯にそっくりで、睫毛が長い。眠っている顔は小さな天使みたいだ。
生まれたばかりの頃を思い出す。小さな塊を抱きしめたまま、怖くて一晩中眠れなかった。潰してしまいそうで。
この子の成長を見届け、いつか結婚して、子どもを持つ日まで――そうやって一緒に歩くのだと。
まさか、自分から離れる日が来るなんて。
「……ママ?」
とろりと甘い声が、思考を断ち切った。
相葉栞里が顔を上げると、氷上辰也が眠たげに目を開けて、こちらを見ている。
「ママ、どうしてここにいるの?」
相葉栞里は長いこと彼を見つめ、それからやっと、囁くように言った。
「辰也。ママ、行くね」
辰也はぽかんとする。
「どこに?」
答えず、相葉栞里は小さな頭を撫でた。そして、最後の叮嘱を落とす。
「これからは自分でちゃんと気をつけて。お腹が弱いんだから、甘いものと脂っこいものは控えてね。パパに言って、ちゃんと見てもらいなさい」
辰也は眉を寄せ、露骨にうんざりした顔になる。
「分かったよ。ママってほんとウザい。毎日そればっか」
相葉栞里の手が、宙で固まった。
見慣れたその苛立ち。胸のどこかが、すっと冷える。
彼女は自嘲するように笑った。
「……もう言わない」
手を引き、声を羽のように軽くする。
「加奈おばさんがいてくれるなら、ママみたいにうるさく言わないよ。好きなケーキも食べられるし、好きなジュースも飲める。怒られない」
「あなたの望みは、全部叶うよ」
――栗山加奈をママにしたい、という望みも。
相葉栞里は立ち上がり、出て行こうとした。
「ママ?」
背中に声が触れた。けれど、振り返らない。
後ろから、茫然とした声が落ちてくる。
「ママ……いつ帰ってくるの?」
答えずに、スーツケースを引いた。ごとん、ごとん、と階段を下りるたびに、心の奥の何かが削れていく。
氷上邸を出るころ、空は魚の腹のように白んでいた。街灯はまだ消えず、影だけが長く伸びる。
相葉栞里はタクシーを止めた。
「清江マンションまで」
バックミラー越しに、氷上邸の方角を最後に見る。
五年住んだ家は遠ざかり、やがて朝霧に溶けて消えた。
――
清江マンションは、母が相葉栞里に遺した部屋だった。2LDKで広くはないが、一人なら十分だ。
室内には、かすかなカビの匂い。掃除をしようとした、そのとき。
どんどん、とドアを叩く音がした。
相葉栞里が不思議に思って開けると、そこに立っていたのは従妹の鈴木瑠梨だった。
相葉栞里が口を開く前に、瑠梨が息を切らしてまくし立てる。
「栞里! やっぱりここにいた! 隣の中島さんから電話が来て、朝っぱらからスーツケース引いて帰ってきたって……何があったの?」
相葉栞里は一拍、沈黙してから淡々と言った。
「離婚する」
「はあ!?」
瑠梨の声が跳ね上がる。
「氷上颯に何かされたの? 栞里、大丈夫?」
「大丈夫」
瑠梨はようやく息を吐いた。けれど、すぐ不安そうに眉を寄せる。
「本気で離婚するの? 辰也はどうするの……置いていくの?」
胸がちくりと痛む。相葉栞里は目を伏せ、静かに答えた。
「親権争いは面倒。私は離婚したいだけ。早く終わらせたいの。それに、氷上家にいた方が辰也にはいい」
顔を上げ、無理に笑う。
「……それに、あの子もたぶん、私について来たくない」
瑠梨は言葉を失い、やがて何かを悟ったように奥歯を噛みしめた。
「栗山加奈っていう、あのぶりっ子のせいでしょ。最初から胡散臭いと思ってた! 命の恩人? 弱々しいフリしてるだけで、腹の黒さなら誰にも負けない。氷上颯みたいなバカしか騙せないって!」
「栞里がどれだけあの親子のために尽くしたと思ってるの! 辰也は小さい頃から栞里が育てたんだよ。身体が弱いからって栄養の勉強までして、献立まで作って――」
「氷上颯だって胃が弱いのに、毎朝お粥を炊いてたじゃん。氷上家の人間だってみんな、栞里のこと褒めてた!」
瑠梨は怒りで肩を震わせる。
「それなのに、あの親子。目が腐ってるの? あのぶりっ子の方がいいとか……恩知らずにもほどがある!」
相葉栞里は表情を動かさず、淡々と言った。
「彼らの中では、栗山加奈の方が『もっと尽くした』人なんでしょ」
「氷上颯を救って、脚を失った。車椅子に座っているだけで、氷上颯は一生、借りを背負う」
窓の外へ向けた視線は淡い。
「私がやってきたのは、妻として、母として、当たり前のこと。誰が覚えてるの?」
瑠梨は反論しようと口を開いたが、言葉が出なかった。
数秒の沈黙ののち、瑠梨は大きく息を吸い込み、相葉栞里の腕に自分の腕を絡めた。
「もういい! 縁起悪い連中の話やめ! 行こ、私がおごる。独身復帰祝い!」
引っ張られるまま外へ出ると、沈んでいた心が、ほんの少しだけ軽くなる。
店の前に着いたところで、瑠梨のスマホが鳴った。
数言聞いた瞬間、瑠梨の目がぱっと輝く。
「え、マジ? 」
電話を切るなり、相葉栞里の手を掴んだ。
「栞里、朗報! 昔、伯母さんが手放したあの舞台衣装、高級オーダーの店が売ってくれるって!」
「白くて、細かいラインストーンが入ってるやつ! 伯母さんが舞台で着てたやつだよ! ずっと探してたでしょ? 栞里に譲るって!」
相葉栞里の目が一気に熱くなる。喜びがこみ上げ、泣きそうだった。
母はかつて名の知れたバレエダンサーだった。けれど彼女を育てるため、夢を手放した。
生活がいちばん苦しい時期、いくつもの大切な衣装を売った。その事実を、相葉栞里はずっと胸の奥で抱え続けてきた。
買い戻したかった。ずっと。
瑠梨が言う一着は、母がいちばん愛したものだ。
二人は食事の予定も放り出し、タクシーで店へ向かった。
――
オーダー店の中。
店員が微笑み、衣装を差し出す。
「相葉様、ご依頼のお品でございます。こちらでお間違いないでしょうか。お支払いも確認できております。ご利用ありがとうございます」
相葉栞里は受け取り、指先でリボンの感触をなぞった。胸の奥が、つんと酸っぱくなる。
――お母さん。やっと、戻ってきた。
そのとき背後から、聞き覚えのある声が降ってくる。
「颯、あのドレスすごく綺麗。私、欲しい」
相葉栞里の身体が強張った。
振り返ると、入口に栗山加奈が車椅子でいた。背後には氷上颯。車椅子の取っ手に手を添え、彼女へ向ける眼差しは、甘いほど優しい。
氷上颯は迷いなく言った。
「欲しいなら買おう。君が望むなら、何だって。俺が全部あげる」
