第3章
相葉栞里は手にしたドレスをぎゅっと握りしめた。指先が、わずかに白む。
その言葉が耳に落ちた瞬間、細い針でちくりと刺されたような痛みが走った。
もうとっくに心は死んだものだと思っていた。けれど、あの言葉をこの耳で聞けば、やはり痛い。
結婚して五年。氷上颯は一度だって、彼女にあんな言葉をかけたことはない。
もともとそういう人なのだと思っていた。冷たくて、淡々としていて、甘い言葉など口にしない人なのだと。
けれど栗山加奈に向ける顔を見て、ようやく思い知った。言えないのではない。ただ、彼女には言わないだけだったのだ。
鈴木瑠梨は反応が早かった。すっと一歩前に出て、相葉栞里の前を塞ぐ。
「このドレスは、もう私たちが買ったんです! 店員さん、包んでいただけますよね? お金はもう払ってあります!」
店員は鈴木瑠梨を見、それから入口に立つ氷上颯と栗山加奈を見て、困ったように頷いた。
「はい。こちらのお客様が、すでにお支払いを済まされております」
そこで初めて、氷上颯は店内の相葉栞里に気づいたらしい。わずかに眉をひそめる。
「どうしてお前がここにいる? 俺をつけてきたのか?」
表情が冷えた。眉間の皺が、さらに深くなる。
「話があるなら家で聞く。このドレスは加奈に譲れ」
加奈に譲れ。
あまりにも軽いひと言だった。まるで彼女が生まれつき栗山加奈に借りでもあるみたいに、栗山加奈が欲しがるものなら何でも差し出して当然だと言わんばかりに。
相葉栞里はドレスを握る手に、さらに力を込めた。胸の奥から、抑えきれない怒りがこみ上げる。
鈴木瑠梨など、顔を真っ赤にして今にも怒鳴り返しそうだったが、その腕を相葉栞里がさっと押さえた。
ひとつ、深く息を吸う。
氷上颯と栗山加奈をまっすぐ見返し、相葉栞里は一語一語、はっきりと言った。冷たく澄んだ声だった。
「このドレスは、母の形見です」
「誰にも譲りません」
それを聞いた栗山加奈は、たちまち目元を赤くした。声音はやわらかく、かすかな委屈を絶妙に滲ませている。
「颯、もういいの。おばさまの形見なら……私、無理にいただくべきじゃないわ」
伏せた睫毛が、かすかに震える。沈んだ表情のまま、ぽつりと続けた。
「脚さえ悪くならなかったら、私、今でも踊れていたはずなのに……」
そこでいったん言葉を切る。追憶にひたるように、さらに声を細くした。
「颯と初めて会ったのも、ダンススタジオだったわよね。踊ってる私を見て、白鳥みたいだって言ってくれた……」
氷上颯の目元がふっと和らいだ。栗山加奈へ向ける眼差しには、あからさまな痛ましさが滲んでいる。
「でも今の私は、もう一生踊れない。このドレスを手に入れられたら、せめて思い出として……たまに昔を懐かしめるのに……」
言い終える頃には、涙が今にも零れそうに目に溜まっていた。
相葉栞里は、その芝居がかった様子を冷ややかに見つめ、心底おかしくなった。
「この世にドレスが一着しかないわけでもないのに、どうしてわざわざ私のものを欲しがるんです? 人のものを奪うの、もう癖になってるんじゃないですか」
栗山加奈の顔色が、ぴくりと変わった。次の瞬間には、涙がぽろぽろと溢れ出す。
「栞里お姉さん……まだ、あのバングルのことで私を責めてるんですか?」
肩を震わせ、今にも崩れ落ちそうな声で謝る。
「本当に、わざとじゃなかったんです……ごめんなさい。ごめんなさい……」
母が遺してくれた翡翠のバングルもそうだった。
栗山加奈が「素敵」とひと言漏らしただけで、氷上颯は泣いて縋る彼女の手からそれを奪い、栗山加奈に与えた。
そして後日、栗山加奈は彼女の目の前で、そのバングルを落として割ったのだ。
あの瞬間、何もかもが終わった気がした。母が遺してくれた、最後の想い出だったのに。
それでも氷上颯は、涙をこぼす栗山加奈を抱き寄せながら、こう言ったのだ。
「たかがバングルだろう。加奈だってわざとじゃない。栞里、お前いつからそんな狭量な女になった?」
相葉栞里は深く息を吸い込み、胸の奥にまた浮かび上がった鈍い痛みを押し殺す。
今度こそ、譲らない。
その横で栗山加奈は、今にも気を失いそうなほど泣いていた。氷上颯は慌ててその肩を支え、きつく眉を寄せたまま相葉栞里を睨む。
「相葉栞里、いい加減にしろ。いつからそんなに執念深くなった? バングルの件は、加奈はもう謝っただろう。どうしてまだそんなふうに責め立てる」
相葉栞里は彼を見上げ、唇の端だけを皮肉げに持ち上げた。
母の形見を守ることが、責め立てること。
自分のものを渡さないことが、心が狭いこと。
そういう理屈らしい。
声はいっそう冷えた。霜をかぶせたように。
「氷上颯。自分勝手でも、何とでも言えばいいです。でもこのドレスだけは譲りません。あなたが何を言おうと同じです」
氷上颯の顔がすっと沈む。
その背後で、栗山加奈がそっと彼の袖を引いた。蚊の鳴くような小さな声。
「颯、もういいの……栞里お姉さんが嫌だって言うなら、私、諦めるから……」
そう言いながら、また涙を落とす。それでも無理に笑ってみせる顔は、いかにも健気で、いじらしかった。
氷上颯の目つきが、ますます揺るがないものになる。
「このドレスは、俺がもらう。代わりに何が欲しい。お前の望むものなら、何でも叶えてやる」
相葉栞里は彼を見た。胸の奥が、すうっと冷えていく。
五年。彼女はずっと待っていた。
自分のしてきたことを、いつかこの人が見てくれる日を。
けれど彼の目に映るのは、いつだって栗山加奈だけだった。
そして今、栗山加奈のためなら、彼は何だって差し出すという。
相葉栞里は、かすかに笑った。確認するように問う。
「氷上社長は、本当に何でもくださるんですか?」
氷上颯はわずかに顎を上げ、それを肯定した。
相葉栞里は目を伏せる。声は霜よりも冷たかった。
「それなら、ドレスはお譲りします。その代わり、今すぐ離婚協議書に署名してください」
その瞬間、氷上颯の顔色がさっと黒くなる。眉間には、きつい皺が刻まれた。
やはり、そう来たか。
昨日から今日にかけて離婚を口にし、今度はドレスを盾に揺さぶってくる。結局は自分の気を引きたいだけ、折れさせたいだけ――彼にはそうとしか思えなかった。
結婚して五年。彼女の目にも心にも、自分しかいなかった。
あれほど自分を愛していた女が、本当に離れていけるはずがない。
「相葉栞里」
声が冷えきっていた。
「駆け引きにも限度がある。俺の我慢にも限界があるんだ。くだらない真似はやめろ」
相葉栞里は目を伏せたまま、自嘲するように口元を歪める。
彼は本気で信じているのだ。自分は彼なしでは生きられない、離婚など所詮は手札のひとつにすぎない、と。
――でも、氷上颯。
今度こそ本当に、私はあなたから離れる。
もう、あなたを愛していない。
「氷上社長は、応じるのかどうか。それだけ答えてください」
離婚協議書という言葉を聞いた瞬間、栗山加奈の目にかすかな喜びがよぎった。
けれどそれも一瞬で、すぐに伏せた睫毛の陰に隠される。彼女は可憐に氷上颯を見上げた。
「颯……」
そのひと言には、期待も、願いも、口にできない思いも、何もかもが滲んでいた。
相葉栞里はそれをすべて見ていた。
それでも心は、もう動かない。
ただ静かに、氷上颯の返答を待った。
