第4章
言い終えた瞬間、空気がぴたりと凍りついた。
氷上颯の周囲の気配が一段低く沈む。墨を流したような瞳の奥で、荒れ狂う嵐がうねり、いまにも彼女を呑み込みそうだった。
けれど相葉栞里は怯まない。まっすぐその視線を受け止めたうえで、足りないと言わんばかりに離婚協議書をさらに前へ押し出す。
そのときだった。
ずっと黙っていた栗山加奈が、喉を引きつらせたように息を吸い込んだ。
「……っ」
顔色は紙のように白い。胸元をきつく押さえ、体が小刻みに震えだす。呼吸は浅く、かすれていった。
「颯……わたし……胸が……すごく、痛い……」
「加奈!」
氷上颯の顔色が一変する。相葉栞里に向けていた怒りなど、瞬きひとつの間に消え失せた。彼は一歩で距離を詰め、今にも崩れ落ちそうな加奈の体を支える。
腕の中に抱きとめた声は、これまでにないほど切迫していた。
「加奈、どうした? 頼む、怖がらせるな……!」
栗山加奈は彼の胸に縋りつき、涙をぽろぽろと零す。息が上がり、言葉は途切れがちだ。
「栞里姉さん……どうして……どうしてあんなこと……」
「わたしは……ただ、そのスカートが好きで……何も知らなくて……知らなかったの……それが、おばさんの遺されたものだなんて……」
泣き崩れるその姿は、まるで理不尽な責めを受けた被害者そのものだった。
その表情が、氷上颯の胸に残っていた最後の理性へ火をつける。
彼は勢いよく顔を上げ、氷を砕いたような瞳で相葉栞里を射抜いた。吐き捨てる声は冷たく、鋭い。
「相葉栞里。満足か? あいつが倒れるまで追い詰めないと気が済まないのか!」
目の前で展開される滑稽な光景に、相葉栞里は心臓を見えない手で握り潰されるような息苦しさを覚えた。息を吸うだけで、胸の奥がちくりと痛む。
言い返そうと口を開きかけた、その前に。
幼く、責める色をたっぷり含んだ声が割り込んだ。
「ママ! なんで加奈おばさんをいじめるの!」
いつの間にか、氷上辰也が車から飛び出してきていた。玄関口に立つ小さな体。頬を真っ赤にし、目を怒りで濡らしている。
辰也は加奈のそばへ駆け寄ると、まるで盾になるように彼女の前に立ち、相葉栞里へ向かって叫んだ。
「加奈おばさん、具合悪いのに! それでも怒鳴るなんて! ママなんて最低だ! ぼく、ママなんか嫌い!」
――嫌い。
その一言が、研ぎ澄まされた刃のように、相葉栞里の胸のいちばん柔らかいところへ正確に突き刺さった。
どくどくと血が流れる感覚。息が詰まり、視界が滲む。
命がけで産んだ。五年、痛いほど愛してきた。
その息子がいま、憎しみの目で自分を見て、別の女を庇っている。
……心が死ぬとは、こういうことなのだろう。
引き裂かれる痛みではない。内側から外側へ広がっていく、麻痺と冷え。魂だけがすっと抜け落ちて、空っぽの器が立っているだけ。
「恩知らず! このガキ、何言ってんの!」
鈴木瑠梨が怒りで震えながら、辰也を指さして怒鳴った。
「お前の母親がどれだけ苦労したと思ってんの! 生まれたときから体が弱くて、寝る間も惜しんで面倒みてたんだよ! 体を整えるために、何もしたことない彼女が料理も栄養も勉強してさ! それを、赤の他人のためにそんな言い草……良心はどこ行った!」
辰也は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにむっと首を突き出す。
「知らない! 加奈おばさんの方がママよりいいもん! 怒らないし、遊んでくれるもん!」
「……あんた……!」
瑠梨は言葉を失い、唇を噛む。
氷上颯はもうそれどころではない。栗山加奈を横抱きにすると、胸元の人へ焦って言った。
「加奈、病院へ行く。大丈夫だ、何も起きない」
相葉栞里の横を通り過ぎるとき、彼の足が一瞬止まった。声には露骨な警告と嫌悪が混じる。
「相葉栞里。加奈に何かあったら……俺は絶対に許さない」
それだけ言い捨て、彼は栗山加奈を抱いたまま、氷上辰也を連れて慌ただしく去っていった。
相葉栞里はその場に立ち尽くし、三人の背中を見送る。
寄り添う姿は、どう見ても家族だった。
そして自分は、最初から最後まで部外者。
手の中のスカートが、鉛の塊みたいに重い。
「栞里……」
鈴木瑠梨が心配そうに覗き込む。
相葉栞里は小さく首を振った。顔には何の表情もなく、声だけが不気味なほど静かだった。
「平気。行こう」
氷上颯のために十年打ち続けた心臓が、この瞬間、完全に止まった。
――
病院の廊下。
氷上颯は栗山加奈を抱えたまま駆け、氷上辰也がその背を必死に追いかける。
救急のランプが点き、扉が閉まった。氷上颯は落ち着かずに入口の前を行き来し、辰也は長椅子にちょこんと座って、心配そうに扉を見つめ続ける。
少し離れた場所では、若い母親がやんちゃな息子を叱っていた。
「ほら見なさい、あそこのお兄ちゃん。お父さんと一緒にちゃんとママを守ってるでしょ」
女は氷上辰也の方を指し、続ける。
「それに、あの叔父さんも。奥さんが具合悪いってなったら、すぐ抱っこして病院だよ。男の人はこうじゃなきゃ。奥さんと子どもをいちばんにするの。あなたも大きくなったら見習いなさい、いい?」
その言葉がふわりと辰也の耳に入って、小さな頭の中に妙な感覚が生まれた。
パパは加奈おばさんを守ってる。ぼくも守ってる。
だから、ぼくたちは正しい。
でも、なんだろう。この変な感じ。
あの人は、パパが守ってるのは「ママ」だって言った。
だけど、加奈おばさんはママじゃない。
考えても分からない。辰也は結局、考えるのをやめた。
ほどなくして、救急の扉が開き、医師が出てくる。
「興奮が強かったのと、軽い低血糖です。大きな問題はありません。少し休めば大丈夫でしょう」
氷上颯は肩から力を抜いた。
栗山加奈はすぐに看護師に押されて出てきた。まだ青白いが、目の焦点は戻っている。
「颯……辰也……ごめんなさい。心配かけちゃって」
弱々しく笑う加奈に、辰也がぱっと駆け寄り、その手をぎゅっと握った。見上げる眼差しは真剣だ。
「加奈おばさん、謝らなくていい! これからぼくとパパが守るから! ずっと、ぼくのママになってよ!」
栗山加奈の瞳に、ほんの一瞬だけ得意げな光が走る。あまりに速く、誰にも掴めないほどに。
彼女はすぐに柔らかな表情へ戻し、辰也の頭をそっと撫でた。声はあくまでか細い。
「おばさんが……ママだなんて、そんな……」
――
氷上邸に戻ると、氷上颯は栗山加奈を支えてソファへ座らせ、水を用意し、毛布を掛け、必要以上に甲斐甲斐しく世話を焼いた。
氷上辰也は自室へ走り、すぐに一枚の絵を持って戻ってくる。
「加奈おばさん、これあげる! 元気出して!」
差し出された画用紙には三人。背の高い男、車椅子の女、そして小さな男の子。手を繋いで、頭上にはにこにこした太陽。
「これがぼくで、これがパパで、これが加奈おばさん!」
辰也は指さし、期待に満ちた顔で尋ねる。
「ねえ、好き?」
「好きよ。おばさん、すごく嬉しい」
栗山加奈は優しく笑い、絵を受け取ると、壊れ物を扱うみたいに丁寧にローテーブルへ置いた。
「おばさんがもらった中で、いちばんの贈り物。大切にとっておくね」
氷上辰也は、満足そうに笑った。
