第5章
午後、氷上辰也は喉が渇いて階下へ水を飲みに降りた。リビングを通りかかったとき、なぜだか吸い寄せられるようにゴミ箱へ視線が落ちる。
その隅に、くしゃくしゃに丸められた紙が一枚。妙に目立っていた。
辰也はそっと近づき、不思議に思いながら拾い上げ、ゆっくりと広げる。
――それは、栗山加奈に渡した、あの絵だった。
太陽には深い皺が刻まれ、辰也が描いた『三人家族』も、ぐにゃりと歪んでしまっている。
氷上辰也はその紙を握りしめたまま、長い時間、そこから動けなかった。
加奈おばさんは「好き」と言ってくれたのに。どうして捨てるんだろう。
小さな胸の奥に、言葉にならない悲しさと悔しさが、じわりと滲む。
けれど次の瞬間、辰也は加奈のための理由を、必死に探してしまう。
きっと……きっと、僕の絵が下手すぎて、加奈おばさんが言いにくかったんだ。だからこっそり捨てたんだ。
うん、きっとそうだ。
相葉栞里と鈴木瑠梨が清江マンションへ戻った頃には、外はすっかり夜になっていた。
鈴木瑠梨は、紆余曲折の末に戻ってきた舞台衣装のスカートを丁寧にハンガーへ掛ける。ふと振り返れば、ソファに座る相葉栞里の表情は虚ろで、見ているだけで胸が痛んだ。
「栞里、もうあんな胸くそ悪いこと、考えないで」
鈴木瑠梨はぬるめの水をコップに注いで差し出す。
「そんな相手に腹を立てるの、もったいないよ」
相葉栞里は受け取る。氷みたいに冷たかった指先が、少しずつ温もりにほどけていった。
彼女は何も言わない。ただ、照明にきらきらと細かな光を散らす舞台衣装を見つめていた。母の夢であり、かつて自分の夢でもあったもの。
「鈴木瑠梨」
やがて栞里が口を開く。声は少し掠れていた。
「私、やり直したい」
鈴木瑠梨が一瞬きょとんとし、すぐに意味を理解して目を輝かせる。
「栞里、それって……デザインのこと?」
相葉栞里は一流のデザイン学院を卒業し、バレエ衣装デザインを専攻していた。あの代でも指折りの才能――そう言われたはずなのに、氷上颯のため、家庭のために、全部しまい込んだ。彼の背中に隠れるように、ただの『妻』でいることを選んだ。
でも、もう違う。
「うん」
栞里は頷く。瞳にようやく焦点が戻った。
「ママのブランド、もう一度立ち上げたい」
「最高!」
鈴木瑠梨は太ももを叩いて立ち上がると、思い出したように栞里の腕を引いた。
「ねえ、見せたいものがある。行こ!」
車は夜の街を走り抜け、やがてクリエイティブ・パークの一角に停まった。
瑠梨は栞里を連れて建物の中へ入り、鍵でスタジオの扉を開く。
「栞里、ようこそ――新しい居場所へ!」
扉が開いた瞬間、ぱっと灯りが点いた。大きな窓から柔らかな光が差し込む、明るく広い空間。木目の床、中央には大きな作業台。まだ何も置かれていないのに、ここにはもう、仕事の匂いと温度があった。
相葉栞里は立ち尽くし、呆然と息を呑む。
「瑠梨……これ……」
「前から用意してたの!」
鈴木瑠梨は胸を張る。
「栞里が、あの家で一生くすぶるわけないって、ずっと思ってた。戻ってくる日、ずっと待ってたんだから!」
胸の奥に熱いものが込み上げ、栞里の目が滲む。ここ数日の冷たさや理不尽が、溶けて流れていくようだった。
「……ありがとう、瑠梨」
「何言ってんの」
瑠梨は栞里の肩を抱き、もう嬉しくて仕方ない顔で指をあちこちに向ける。
「ここにはでっかい鏡を付けよう。全体のバランス見やすいし! あっちは棚、布も糸も色別にぎっしり並べてさ。トルソーはね、いっちばん良いの頼んどいた。明日届く!」
瑠梨が自分のことみたいにはしゃぐのが可笑しくて、栞里の胸の鼓動が、久しぶりにしっかりと鳴った。
栞里は鞄から、年季の入ったスケッチブックを取り出して差し出す。
「これ……この数年、暇なときに描いてたの」
鈴木瑠梨は興味津々で受け取り、適当に一枚めくった。次の瞬間、表情が固まる。
鉛筆で描かれたデザイン画。
軽やかに踊る線、大胆なのに調和する色の構想。端には小さな文字で、素材、裁断、縫製工程まで緻密な指示がびっしりと書き込まれている。
その一筆一筆に、息がしていた。
瑠梨はページをめくる手を止められない。めくるほどに背筋が冷える。どれもこれも、外に出せば即座に話題になる――そんな完成度だった。
「栞里……」
瑠梨の声が震える。
「あなた、埋もれてた天才じゃん……氷上颯、何を失ったか分かってんの? バカじゃないの!」
相葉栞里はスケッチを見つめ、ようやく唇の端を少しだけ上げた。
そう。彼は彼女を愛さないし、理解もしない。
でも、誰かはきっと、彼女のデザインを愛してくれる。才能を見てくれる。
彼女の世界は、もう彼ひとりの周りで回ったりしない。
――
一方、氷上邸。
氷上辰也はリビングのラグに座り、テーブルの上に置かれた、伸ばし直された絵を睨みつけていた。小さな眉間には深い皺。
どうして加奈おばさんは、あれを捨てたんだろう。
そこへ、家政婦の高村が果物を載せた皿を持って現れ、絵と辰也の落ち込んだ顔を見比べて、ため息をついた。
「そんなにしょんぼりしないで。栗山さんも、たまたま――」
「うん!」
辰也は勢いよく顔を上げた。まるで救いの言葉に縋りつくみたいに。
「加奈おばさん、きっと間違えて捨てちゃったんだよね!」
どうしたら、加奈おばさんがまた笑ってくれて、自分が本当に好きなんだって信じてくれるんだろう。
ふと、加奈おばさんが甘いもの好きだと言っていたのを思い出す。
「高村さん!」
辰也は台所へ駆け込み、高村の服の裾を掴んだ。
「エッグタルト、作り方教えて。ママが前、食べちゃだめって言ってたやつ」
高村は辰也のきらきらした目に逆らえず、小さな踏み台を持ってきて、手取り足取り教える。
卵液を混ぜて、裏ごしして、タルト生地に流し込む。小さな台所で辰也は汗だくになりながらも、顔は期待で明るかった。
焼き上がったエッグタルトがオーブンから出てきたとき、辰也は皿を両手で抱え、宝物みたいに栗山加奈のところへ走る。
「加奈おばさん、僕が作ったエッグタルト! 食べて!」
「辰也、すごいわね」
栗山加奈は優しく笑い、辰也の頬をつまむ。そうして一つを手に取り、上品に小さく齧った。
「うん、おいしい。おばさんが食べた中で、いちばんおいしいエッグタルトよ」
辰也の胸に花が咲いたみたいに、ぱっと嬉しさが広がる。さっきまでの暗い気持ちは霧散した。
夕食後、栗山加奈は「疲れた」と言い、氷上颯に車椅子を押させて部屋へ戻った。
辰也は自室へ宿題をしに行こうとして、台所の前を通りかかったとき――何気なく、ゴミ箱の中が目に入った。
ほとんど手が付けられていないエッグタルトがいくつも、果物の皮や残飯の間に、静かに沈んでいる。
辰也の足が、すとんと止まった。
午後に飲み込んだ、あの言葉にならない悲しさと悔しさが、また胸いっぱいに溢れてくる。今度は、さっきよりずっと強く。
どうして……?
絵なら、間違って捨てたって言えるかもしれない。
じゃあ、あんなに頑張って作ったエッグタルトは?
おいしいって言ったのに。
どうして、捨てたの?
