第6章

小さな胸の奥に、綿でも詰め込まれたみたいな息苦しさが広がって、辰也はうまく息を吸えなかった。

ぎゅっと小さな拳を握りしめると、くるりと踵を返して部屋へ駆け戻る。受話器を掴み、体が覚えているまま、指はあの番号を打っていた。

長い、長い呼び出し音。

もう誰も出ない――そう思いかけたとき、不意に繋がった。

「ママ……」

口を開いた瞬間、声はもう泣いていた。

けれど、その二文字を呼んだだけで、通話はぶつりと切られる。

耳に残るのは、無機質な話し中の音だけ。

辰也はその場に立ち尽くした。次の瞬間、こらえていた涙が決壊して、ぽろぽろと大粒になって頬を伝い落ちる。

翌朝、辰也は生まれて初めてというくらい、ひどい寝坊をした。

慌てて身支度を整え、ばたばたと階下へ駆け下りたときには、もう氷上颯は家を出たあとだった。

高村さんは辰也に鞄を背負わせながら、急き立てるように手を引く。

「急いでください、遅れてしまいますよ」

車に乗り込むなり、高村さんはこらえきれないようにこぼし始めた。

「奥様がいらした頃は、こんなこと一度もありませんでしたよ。毎朝5時半には起きて朝ごはんを用意して、時間を見て坊ちゃんを起こして、お召し物だって枕元にきちんと揃えておかれて」

「坊ちゃんは小さい頃からお腹が弱かったでしょう? だから奥様、自分で栄養のことを勉強なさって、毎日いろいろ工夫してお食事を作っていらしたんです。それなのに今は好きなものを好きなだけ食べて……昨夜あんなに甘い物を召し上がったのですもの。今朝、気分が悪くても無理はありません」

そのひと言ひと言が、小さな石みたいに辰也の胸へ沈んでいく。

あれは食べちゃだめ、これは体によくない――いつも少し眉を寄せて言っていたママの顔を思い出す。

毎晩欠かさず宿題を確かめていたことも。

熱を出した夜、眠らずに抱きしめ続けてくれた腕のぬくもりも。

あんなにうるさいと思っていた言葉も、息が詰まるほど煩わしいと思っていた厳しさも、今はどうしようもなく鮮明だった。

道中、辰也はひと言も話さなかった。

やがて車は幼稚園の前に着く。鞄を背負って降りていく小さな背中は、どこかひどく心細げだった。

一方その頃、栞里は電話を切ると、迷いなく辰也の番号を着信拒否に入れた。

もうあの子の声は聞きたくない。

氷上家に関わる何もかもに、これ以上心を揺らされたくなかった。

スマホを無造作に脇へ置き、スケッチブックを手に取る。

線と陰影だけの世界へ、意識を深く沈めていく。

瑠梨が部屋の扉を開けたとき、目にしたのはそんな光景だった。

作業机に向かう栞里。

窓の外の夜の色と室内の灯りが、その横顔をやわらかく縁取っている。

静かで、澄んでいて、そのまま一枚の絵みたいだった。

「栞里」

瑠梨は足音を忍ばせながら近づき、どこか得意げに一通の招待状を差し出した。金の箔押しが、光を受けてきらりと光る。

「明日の夜の翔徳グループのビジネスパーティー。知り合いに頼み込んで、なんとか手に入れたの。こういう場ならブランド側の人とも、投資家とも繋がれるでしょ? これからアトリエを立ち上げるなら、きっと無駄にならないわ」

栞里は招待状を受け取り、指先で繊細な模様をなぞった。

瞳が、わずかに揺れる。

ここが再出発の第一歩なのだと、彼女にはよく分かっていた。

立ち止まったままではいられない。

「……うん」

……

パーティー当日の夜。

会場には香水の気配が漂い、グラスの触れ合う音と笑い声が絶え間なく交錯していた。

栞里は黒のロングドレスをまとっていた。無駄のない裁断が体の線を美しく引き立て、ゆるく巻いた髪はまとめ上げられ、白く細い首筋をすっきりと露わにしている。メイクは控えめなのに、紅を引いた唇だけが鮮やかで、以前の柔らかく従順な印象はもうない。かわりに身にまとっているのは、ひややかで研ぎ澄まされた空気だった。まるで鞘を払ったばかりの刃のように、静かな鋭さがある。

「栞里、今日ほんっとに綺麗!」

瑠梨は腕を絡めたまま、目を輝かせた。

「そのくらいでいいのよ。あの人たちに見せてやりなさい。あんたはあいつらがいなくなったほうが、ずっと素敵に生きられるんだって」

二人が会場の入口まで来たところで、ふいに足を止める。

少し離れた先から、颯が車椅子の加奈を押して、ゆっくりこちらへ歩いてきていた。

男は上質なスーツを隙なく着こなし、長身ですらりとしている。

女は白いドレスに身を包み、いかにもか弱げでやさしげだ。

その取り合わせが目を引くのか、周囲の視線が何度も吸い寄せられていた。

「氷上グループの氷上社長でしょう? 命の恩人だっていうあの人、本当に大事にしてるのね。どこへ行くにも必ず一緒じゃない」

「聞いたわよ。彼女のために家にもあまり帰らないんですって。奥様も気の毒に、形だけの結婚を守らされて」

「あら……あれ、氷上夫人じゃない? どうしてお一人で?」

ひそひそ声は、聞こえないほど小さくもなく、聞き流せるほど遠くもない。

加奈の唇に、かすかな得意げな色が差した。

彼女は顔を上げると、やわらかく栞里へ手を振る。

「栞里お姉さん、いらしてたんですね。声くらいかけてくださればよかったのに。颯も、しばらく会っていないって言っていたんですよ」

まるで自分こそが氷上家の女主人で、久しぶりに訪れた客を迎えているみたいな口ぶりだった。

けれど栞里は、そこに含まれた棘など最初から存在しないかのように、淡々と一度だけ頷く。

それだけ。

そのまま瑠梨の腕を取って、二人の脇をまっすぐ通り過ぎた。

余計な視線ひとつ、くれてやるつもりもない。

颯の目が、すっと細まる。

今日の栞里は、何かが違った。

あんなドレスは見たことがない。

体に沿う仕立てが、彼女のしなやかな輪郭をあますことなく浮かび上がらせていて、露わになった肌は照明の下で眩しいほど白い。

なにより、自分を一度も見ない。

ただそのまま擦れ違っていった。

それだけのことなのに、胸の奥に説明のつかない苛立ちが湧いた。

「颯、入りましょう?」

加奈の声に意識を引き戻され、颯は胸の内のざらつきを押し込めると、そのまま車椅子を押して会場へ入っていった。

会場の中で、栞里はすぐに空気を掴んだ。

人の輪から輪へと自然に渡り歩き、業界でも名の通ったブランド責任者たちと淀みなく話を交わしていく。生地ごとの特性、最新のカッティング技術、市場の流れ、消費者の嗜好――話題が何に移っても言葉に詰まることはなく、むしろ語るほどに彼女の知識と感性の確かさが際立った。

その落ち着きと自信に、周囲の男たちは次々と目の色を変えていく。

「氷上、おまえの奥さん、ただ者じゃないな」

颯と親しい経営者の一人が、グラスを片手に感心したように笑った。

「俺はてっきり、家で大事に囲ってる綺麗な奥方ってだけだと思ってたよ。こんなに業界のことを分かっていて、話も鋭いなんてな。なかなか得難い人材じゃないか」

颯の視線は、気づけばあの細い背中を追っていた。

誰かと笑い、落ち着いた口調で話し、目元に生き生きとした光を宿している。

そんな栞里を、彼は見たことがなかった。

彼の記憶にいる栞里は、いつだって静かだった。

少し後ろを歩き、ひたすら彼だけを見て、やさしく従順に笑っていた。

いつからだろう。

彼女が、ほかの誰かの目に映るほど眩しい存在になったのは。

自分の掌から滑り落ちていくような感覚。

所有物が勝手に意思を持ったみたいで、妙に目障りだった。

その頃、栞里は国内最大手の生地メーカー、中島社長と向かい合っていた。

この男は酒席で話をまとめることで有名だ。

契約を取りたければ、相手の流儀に合わせるしかない。

栞里はグラスを重ねていく。

中島社長は細めた目でじろじろと彼女を眺め、何杯か酒が入ったあとは遠慮もなく手を伸ばしてきた。ぬるりとした手のひらが、栞里の手の甲に重なる。

「相葉さん、このあと俺が送っていこうか?」

栞里は心の中で盛大に顔をしかめながらも、表情一つ変えずにそっと手を引いた。

「迎えがありますので」

「そういうのじゃ味気ないだろう?」

そう言いながら、中島社長はまた彼女のグラスに酒を注ぐ。

頭がふわふわする。

少しでも時間を稼ぎたかったのに、相手は露骨なくらい彼女のグラスばかり見ている。

栞里は仕方なく、また杯を取った。

「やっぱり相葉さんは話が分かる!」

中島社長は突き出た腹を揺らしながら、顔を真っ赤にして笑うと、なみなみともう一杯注いだ。

「さあ、これを飲んだら契約は決まりってことで!」

これで五杯目だった。

喉を焼くような液体が落ちていき、胃の奥でかっと熱が荒れ狂う。

頬にはもう薄く赤みが差していたが、それでも彼女の目はまだ濁っていない。

限界が近いことは分かっていた。

それでも、この機会だけは手放せなかった。

栞里は小さく息を吸い、グラスを持ち上げる。

そのまま一気にあおろうとした、その瞬間――

節くれ立った大きな手がすっと伸びてきて、彼女の手首を押さえた。

「中島社長。うちの妻はあまり酒に強くありません。残りは、私が代わりにいただきます」

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