第1章 三カ月後、私は消える

(牧野結菜の視点)

夫が初恋の女とホテルへ入るところを撮られた、その瞬間。

私はちょうど、フランス勤務の申請を出し終えたばかりだった。

偶然なんかじゃない。

私が、わざとそうしたのだ。

あのとき私は、福山婆さんと福山真司に約束した。三年間、彼の妻でいると。

そして今、その期限は三か月も残っていない。

三か月後、私は彼の世界からきれいさっぱり姿を消す——誰も気にしないだろうし、もちろん私も誰にも話していない。

福山真司にとって私は、いてもいなくても同じ置き物だ。

結婚して三年、彼は一度も私に触れたことがない。交わした言葉だって片手で足りる。

同じ屋根の下に住む、ただの他人。それが私たちだった。

今はその初恋が戻ってきた。

彼の心はすっかり彼女に持っていかれている。

だったら、なおさら私がここにいる理由なんてない。

そんなとき、夫の母——福山彩子から電話がかかってきた。

「結菜、真司と愛未がホテルに入った件だけど、あなたが対処してちょうだい。大ごとにはしないで」

眉が寄る。

ただ、ひどく疲れていた。

村山愛未——それが福山真司の初恋の相手だ。

彼女の父親は生前、福山家と親しくしていたらしい。亡くなったあと、福山家が彼女を引き取った。

三年前、福山婆さんが真司と愛未の関係を知って激怒し、そのまま愛未を海外へ送った。真司がしばらくひどく落ち込んでいたことも——全部、私が結婚してから知った。

「お義母さん、わかりました」

私は小さく答えた。

「結菜、あまり気を落とさないで。真司と揉めたりもしないのよ」

彩子は電話の向こうで、いかにも慰めるような口ぶりだった。

「男なんて、昔の情の一つや二つあって当然でしょう。あなたは真司の妻なんだから、少しは器を大きく持ちなさい」

何も言えなかった。

胸の奥を抉られたみたいに、そこだけぽっかり空いた。

少しも傷ついていないなんて、そんなの嘘だ。

福山真司に嫁ぐと決めたとき、私は本気で彼が好きだった。

喧嘩なんて、するつもりもない。

福山婆さんには恩がある。亡くなる間際、私は約束したのだ。妻として三年間、きちんと真司を支えると。

この三年、私は必死だった。

彼に気に入られようと足掻き、福山夫人としてあるべきことを一心にこなしてきた。

それでも、あの氷みたいに冷え切った心は、最後まで温まらなかった。

もう、疲れた。

これ以上は、愛せない。

電話を切ると、着替えて車のキーを掴み、そのままホテルへ向かった。

最上階のプレジデンシャルスイートの前まで来て、一度だけためらう。

それでも結局、インターホンを押した。

ドアはすぐに開いた——開けたのは福山真司ではない。

村山愛未だった。

白いバスローブ姿で、濡れた黒髪が肩に落ちている。

私を見るなり、彼女はぱっと花が咲くような笑みを浮かべた。

「結菜さん! 来てくれたんだね!」

私は室内をひと目だけ見やり、冷えた声で訊く。

「真司は?」

「真司兄なら、お風呂だよ」

彼女は身体をずらし、私を中へ通そうとした。

その直後、バスルームのドアが開いた。

真司が彼女とお揃いのバスローブ姿で出てくる。タオルで髪を拭きながら、端正な顔に気だるげな色を浮かべていた。

玄関に立つ私を認めた途端、その目があからさまに不機嫌に細まる。

「どうしてお前が来るんだ?」

私が口を開く前に、愛未が先に割って入った。

「結菜さん、誤解しないでね。さっき空港でうっかりフルーツジュースをこぼしちゃって、それでホテルで先にシャワー浴びて着替えただけなの」

真司は鼻で笑った。

私を見る目には、露骨な嘲りが宿っている。

「そんなに俺をつけ回すのが好きなのか?」

さっと血の気が引いた。胸の奥が詰まるように痛む。

お義母さんに言われて来ただけだ、と言いかけて——やめた。

どうせ彼の中では、私が何をしても間違いで、何を言っても下心があることになる。

込み上げるものを押し殺し、できるだけ平静に言う。

「お義母さんが、あなたを迎えに来いって。あなたと村山さんがホテルに入る写真、もうマスコミに撮られてるわ。福山グループの株価にも影響が——」

言い終える前に、彼は冷ややかに遮った。

「牧野結菜、お前が気にするのはいつだって福山家の金だけだな。どうせあのときだって、金目当てでばあちゃんを焚きつけて俺に結婚を迫らせたんだろう?」

一言一言が刃になって胸に突き刺さる。

そう。たしかに福山婆さんは、彼に私との結婚を強く迫った。

でも彼は知らない。私は彼に嫁ぐ前から、七年も片想いをしていたことを。

結婚式の日。

私は愚かなくらい、本気で思っていた。あの日こそ、自分がいちばん幸せな瞬間を迎えたのだと。

まさか、それが悪夢の始まりだなんて。

「真司兄、そんな言い方しないで」

愛未は彼の腕をそっと引き、柔らかな声でたしなめた。

「結菜さんだって、心配して来てくれたんでしょう? 帰ってあげたら? おばさんだって気にしてるし」

真司の表情が、わずかに和らぐ。

それでも私には冷たい視線をひとつ寄越しただけで、くるりと背を向けた。

「着替えてくる」

寝室のドアが閉まる。

その瞬間、広いリビングには私と愛未だけが残された。

愛未はさっきまでの無邪気で人懐こい笑みを、すっと消した。

代わりに浮かんだのは、あからさまな軽蔑の冷笑。

「見たでしょ? 真司兄が愛してるのは、いつだって私よ。三年も福山夫人の席に居座ったところで、彼の心は手に入らなかったじゃない」

私は冷たく彼女を見た。

「そう。でも残念ね。今、正式な福山夫人は私よ。彼がどれだけあなたを愛していても、あなたはただの不倫相手でしかないわ」

愛未の顔色がみるみる悪くなる。

唇を噛みしめたまま、言い返せない。

そのとき、寝室のドアノブが動いた。

愛未の目に、ひとすじの険しい光が走る。

次の瞬間、彼女はふらりと身体を傾け、そのまま横のテーブルへ倒れ込んだ。

同時に、甲高い悲鳴。

反射的に手を伸ばす。

けれど支えようとした拍子に、手をテーブルの角へ強くぶつけてしまった。

ちょうどその場面を、着替え終えた真司が見た。

彼は大股で駆け寄り、床に倒れた愛未を抱き起こす。

「愛未、どうした?」

愛未は顔を真っ白にし、みるみる涙を溢れさせた。

右手首を押さえ、ちらりと私を見てから、俯いて嗚咽混じりに呟く。

「ち、違うの……結菜さんのせいじゃないの……私が、ちゃんと立てなかっただけで……」

芝居がかった様子に、吐き気すら覚える。

こんな手に引っかかるのは、たぶん真司くらいだ。

案の定、彼は勢いよく振り向き、私を睨みつけた。

「牧野結菜、お前、頭がおかしいのか? 愛未は画家なんだぞ。手を怪我したらどうやって絵を描くんだ!」

その怒声に、心まで冷え切っていく。

もう弁解する気力も湧かなかった。

私はただ静かに彼を見た。

彼が愛未の手を壊れ物みたいに包み込み、顔いっぱいに焦りと痛ましさを浮かべているのを。

そのやさしさを、私はこの三年、一度だって向けられたことがない。

彼は愛未の、絵を描くための手のことは気にかける。

でも私が彼のために、デザイナーになる夢を手放したことなんて、少しも気にしていない。

「大丈夫だ。今すぐ病院に連れていく」

真司の声は、驚くほどやわらかかった。

彼は愛未を横抱きにし、そのまま足早に部屋を出ていく。

最後まで、一度も私を振り返らなかった。

私は一人、その場に立ち尽くす。

そして、さっき愛未を支えようとして打ちつけた手を見下ろした。

青く変色し始めている。

誰も気づかない。

真司は、気づこうとすらしなかった。

……いい。

どうせあと三か月で、私は出ていくのだから。

私は顔を上げ、せり上がる涙を必死に飲み込んだ。

そうやって、どうにか自分を宥める。

けれどこのときの私は、まだ知らなかった。

その日まで、誰かが黙って待たせてくれるわけじゃないことを。

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