第3章 彼は私を抱きしめたのに、株価のためだと言った
(牧野結菜の視点)
病院の裏口から逃げ出したときも、背後ではまだ記者たちの怒鳴り声がかすかに響いていた。
フラッシュの残像は消えたはずなのに、頭の中がまだじんじんとうるさい。とにかく一刻も早く、この忌々しい場所から離れたかった。
けれど非常口の通路へ曲がった瞬間、ひとつの影が目の前を塞いだ。
勢いよく、硬い胸板にぶつかる。倒れかけた身体を、力強い腕がしっかり受け止めた。
顔を上げて、息が止まる。
福山真司だった。
……いつの間に追ってきたの?
「妻が少し体調を崩しましてね。診察に連れて来ただけです」
追いかけてきた記者たちに向かって、彼は淡々と言った。声に感情はまるでない。
私はぎこちないまま彼の腕の中に抱き寄せられていた。腰に回された手の力加減は絶妙で、強すぎず、けれど振りほどけもしない。
「福山社長、ではホテルでご一緒だったお嬢さんの件は……福山夫人とは離婚されるご予定は?」
記者の一人が食い下がる。
福山真司は私を見下ろした。
その一瞥はひどく複雑で、何が込められているのか読み取れない。ただ一つ言えるのは、そこに優しさなど欠片もないということだ。
「ない」
そう言って、腕に少しだけ力を込める。
「俺と妻は、何の問題もなく順調だからな」
……配慮しろ、と命じている目だった。
私は機械みたいに、こくりと頷く。
「妻を休ませたいので」
それ以上質問の余地を与えず、福山真司は半ば抱えるように私を連れて病院の中へ引き返した。
人気のない非常口へ入ったところで、私は村山愛未の姿を見つける。
彼女はそこに立っていた。薄暗い灯りの下、華奢な身体がいっそう頼りなく見える。
福山真司は、すぐに私を放した。
さっきまで私の腰に触れていた手が、汚いものにでも触れたかのように引っ込められる。彼の顔からも、一瞬前の取り繕った柔らかさは消え、また氷みたいな表情に戻っていた。
「ああしたのは、結菜が余計なことを喋って株価に響くと困るからだ」
村山愛未に向かって、彼は急ぐように言い訳した。まるで何より大事なことを弁明しているみたいに。
私は胸の中で冷たく笑う。
そう。私が勝手なことを言うのが困るだけ。私が傷ついたからでも、つらかったからでもなく……ただ株価のため。
村山愛未の目に、一瞬だけ読み取れない色がよぎった。けれどすぐに、何も知らないような無垢な笑顔へ塗り替えられる。
「真司兄、結菜さんはあなたの奥さんなんだもの。気遣ってあげるのは当たり前だよ」
……よくできた人だ。言い方を心得ている。
福山真司は頷き、それから私を見た。眉が寄る。
「愛未を見習え。今回のことはこれで終わりだ。今後、二度と愛未を狙うな」
狙う?
もうとっくに痛みは麻痺していた。どうせすぐ私がいなくなる。そう思うと、自然に口が動いた。
「もう今後なんてないわ」
福山真司が眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
私は答えなかった。
その横で、村山愛未が不安げに彼の袖を引く。
「真司兄……結菜さん、私に怒ってるのかな?」
福山真司はちらりと私を見て、彼女を宥めた。
「怒ってない。あいつは元々ああいう性格だ。放っておけばそのうち元に戻る」
そのうち元に戻る。
いつも、そう。
私たちが揉めるたび、最後に折れるのは私だった。彼の言うことなら何でも飲み込んできた。性格が大人しいからじゃない。愛していたから。何度でも許す気になれたから。
でも、もう違う。
私の心は、完全に死んでしまった。
「もう用がないなら、帰るわ」
小さくそう言って、踵を返す。
「外は記者だらけだぞ。どうやって帰るつもりだ?」
福山真司が反射的に声をかけた。
「裏から出る。あの人たちを避ければいいだけ」
二人をひと目見て、静かに言った。
「邪魔して悪かったわ」
福山真司が何か言いかける。けれど村山愛未が彼を引き留めた。
「真司兄、私も病室に戻って休みたい……」
福山真司は私の背中を一度だけ見た。それきり視線を引っ込め、村山愛未を支えて向きを変える。
「わかった。送る」
私は苦く笑い、そのまま病院をあとにした。
そして弁護士事務所へ電話をかける。
「離婚協議書を作ってください。できるだけ早く……ええ、私は何もいりません」
(福山真司の視点)
村山愛未を支えて病室へ戻る間も、彼女はずっと何か喋っていた。だが俺の頭の中では、結菜のさっきのひと言ばかりが反芻していた。
――もう今後なんてない。
どういう意味だ? “今後がない”って、何のことだ。
「真司兄? 何考えてるの?」
村山愛未の声で我に返る。
俺は彼女の包帯の巻かれた手を取り、そっと息を吹きかけた。傷自体はたいしたことがない。医者も数日で治ると言っていた。……それでも、痛そうな顔を見ると胸が痛んだ。
村山愛未は、そんな俺の顔をじっと見つめる。ふいに身を寄せてきた。
キスしようとしたのだと気づき、俺は反射的に顔を逸らした。
唇が触れたのは、頬。
空気が一気に気まずくなる。
俺は立ち上がり、とっさにもっともらしい理由を口にした。
「……記者に撮られたら面倒だろ」
村山愛未の目に、一瞬だけ怨みが滲んだ。だがすぐ、しおらしい寂しさに置き換わる。
「真司兄、時々思うの。あの頃、おばあちゃんが私たちを無理に引き離したりしなければ……今、あなたと結婚してたのは私だったのかなって」
俺は彼女を見て、適当に「ああ」とだけ返した。
なのに胸の中では、説明のつかない苛立ちがじわじわと広がっていく。
俺はたしかに愛未を愛している。……そのはずなのに、彼女が近づいてきたとき、どうして避けた?
どうして、こんな触れ合いに違和感を覚える?
村山愛未は俺の腕にしがみつき、甘い声で囁いた。
「真司兄、今はもうおばあちゃんもいないし、誰も私たちを邪魔できないよね。……まだ、私のこと愛してるよね?」
俺は一瞬、言葉を失った。
彼女はすぐに目を潤ませ、拗ねたように唇を尖らせる。
「一生私を守るって言ってくれたのに。今さら、捨てたりしないよね?」
俺は慌てて彼女の肩を抱いた。
「そんなわけないだろ。俺はずっとお前のそばにいる」
「じゃあ……結菜さんとは離婚するの?」
離婚。
俺はその問いを、これまで真剣に考えたことがなかった。
結菜にこれといった感情はない。……それでも、離婚と言われると、なぜか胸のどこかがざわついた。
答えないまま、俺は立ち上がって襟元を整えた。
「ちゃんと休め。俺はちょっと用がある。……また来る」
彼女の返事も待たず、病室を出る。
別荘へ戻ると、苛立ちまぎれにネクタイを緩めた。家の中を見回しても、結菜の姿がない。
あの女、本気で怒ってるのか?
電話をかけようとスマホを取り出したところで、インターホンが鳴った。
結菜が戻ったのかと思い、足早に扉を開ける。立っていたのは郵便配達員だった。
「牧野結菜様のお宅でよろしいでしょうか。国際便のお届け物です。受領サインをお願いします」
書類を受け取った瞬間、封筒に印刷されたフランスの有名建築設計事務所のロゴが目に入る。俺は眉をひそめた。
サインを済ませて扉を閉め、封面を確認する。そこには英語でこう書かれていた。
OFFER OF EMPLOYMENT
採用通知書。
牧野結菜が、海外へ?
その書類を持つ手に、何とも言えない感情が湧き上がった。
心配でもない。名残惜しさでもない。
なのに、それが何なのか、自分でもうまくわからなかった。
