第4章 あなたを解放することにした

(福山真司の視点)

あいつは、何様のつもりだ。

勝手に「出ていく」だなんて。

必死になって俺に嫁ぎたがったのは、あいつのほうだ。

それが今さら逃げる? 俺を何だと思ってる。

ソファに腰を落とし、手の中の採用通知を握りしめた。

胸の底に沈んだ得体の知れない重さは、時間が経つほど増していく。苛立ちまぎれにネクタイを引き、視線は玄関を睨みつけたままだ。

カチャリ、と鍵の回る音。

牧野結菜が入ってくる。

落ち着いた顔で、リビングの俺を見ても淡く目をやっただけ――まるで家具でも確認するみたいに。

その「完全に見えていない」感じが、胸の火に油を注いだ。

俺は勢いよく立ち上がり、数歩で彼女の前へ行くと、書類をローテーブルへ叩きつける。

「これは何だ」

怒りを押し殺した声は、自分でもぞっとするほど冷たかった。

「牧野結菜。今度は何を企んでる?」

結菜は書類を一瞥し、今日の天気でも語るような口調で返す。

「ヘッドハンター会社が転送してきた採用通知よ。もう忘れてた。何? 福山社長は私の就職活動まで管理するの?」

「お前……!」

その無関心さが、俺の神経を逆撫でした。

「とぼけるな。フランスだと? 三か月経ったら出ていくつもりで、前から準備してたんだろ!」

結菜が目を上げる。

涼やかで冷えた瞳が、怒りで煮えたぎる俺を真正面から射抜いた。

「福山社長はずっと、私が消えるのを望んでいたんじゃないの?」

「なら、私が望みどおり身を引こうとしてるのに、どうして不機嫌になるの」

その言葉は針みたいに、胸の奥へ正確に刺さった。

そうだ。俺は喜ぶべきだ。

三年間うっとうしかった女が、ようやく消える。シャンパンでも開けて祝えばいい。

なのに、胸の中にあるのは晴れやかさじゃない。

言葉にできない息苦しさだけだ。

腹の底が煮え、考えるより先に怒鳴っていた。

「牧野結菜、お前がどうやって福山家に入ったか忘れるな! 少し力がついたからって、今度は人を使い捨てにする気か?」

結菜は目を伏せた。

視線の先は、自分の手――青紫の痣が浮いた手。

つられて俺も見た。

白い肌に、紫がかった痣。やけに目立つ。

……いつ怪我した?

だがそんなことを気にしている余裕はなかった。

頭の中を占めるのは、採用通知と「身を引く」という言葉だけ。

大きく息を吸い、感情を押し込めて告げる。

「この件はあとで話す。今は病院へ行って、愛未に謝れ」

結菜がゆっくり顔を上げた。

口元に薄い嘲りが浮かぶ。

「謝る?」

冗談でも聞いたみたいに、その言葉をなぞる。

「そうだ」

「お前があいつを突き飛ばして手首を捻挫させたんだ。謝るのが筋だろう」

「私は突き飛ばしてない」

小さい声なのに、妙にくっきりしていた。

「俺がこの目で見たんだ。まだ言い逃れする気か?」

「牧野結菜、お前がここまで陰湿な女だったとはな。愛未は画家だぞ。手がどれだけ大事かわからないのか? そんなにあいつが邪魔か!」

言い終えた瞬間、胸の奥がざらついた。

以前の結菜なら、きっと目を潤ませて必死に弁解したはずだ。

だが今回は違う。

ただ俺を見ている。

その目の奥に、ひどく居心地の悪い何かが沈んでいた。

「福山真司、あなたのどの目が、私が彼女を突き飛ばしたって見たの?」

結菜の声が、ふいに鋭さを帯びる。

「相手が村山愛未だから、彼女の言うことは何でも信じるの?」

「涙を一滴こぼせば、それだけで心が痛むの?」

「じゃあ私は?」

そう言うなり、痣の浮いた手を持ち上げ、俺の目の前へ突きつけた。

目は赤い。それでも声音だけは冷えている。

「これだって、彼女を支えようとしてぶつけたの。見えないの?」

「それとも、あなたの目には“愛未”以外、最初から誰も映っていないの?」

その傷を見た瞬間、俺の瞳がわずかに縮む。

……本当に気づいていなかった。

俺が言葉を失ったのを見て、結菜は自嘲するように笑い、手を下ろした。

「私は謝らない。何ひとつ悪いことなんてしてないもの」

三年で初めてだった。

結菜が、ここまで真っ向から俺に逆らったのは。

顔がすっと冷えていく。

男のプライドが、露骨に逆撫でされる。

「いいだろう。上等だ」

怒りすぎて、逆に笑いが漏れた。

「牧野結菜、お前、あとで後悔するなよ。たかが他人一人のために、そこまで俺と張り合う気か?」

「他人?」

結菜はその言葉を繰り返した。

笑みは皮肉でいっぱいだ。

「あなたの中で、本当の他人は誰なのかしら」

そう言い残し、結菜はもう二度とこちらを見ず、そのまま二階へ上がっていった。

広いリビングに、俺だけが取り残される。

胸は大きく上下し、最後の問いだけが頭の中で何度も反響した。

――本当の他人は誰なのか。

経験したことのない苛立ちと焦燥が、心臓をきつく締めつける。

俺は衝動のままローテーブルを蹴り上げ、スマホを取り出して村山愛未に電話をかけた。

病院にいた愛未は、すぐに出た。声はやわらかく甘い。

「真司兄……今から来てくれない? 一人で病院にいるの、怖くて……」

しばらく黙ったが、結局俺は答える。

「わかった。今行く」

通話を切って車を走らせた。

三十分後、病室のドアを押し開ける。

愛未は俺を見るなり目を潤ませ、怪我していない方の手で俺を引いた。

「真司兄……結菜さんと喧嘩したの? 全部、私のせいだよね……」

「お前は悪くない」

ベッド脇に腰を下ろしても、俺の顔色は晴れないままだ。

愛未はおそるおそる身を寄せてきて、頭を俺の肩に預ける。

「真司兄、怒らないで。結菜さんはあなたの奥さんなんだし、夫婦なら喧嘩くらいするよ」

「手が治ったら、私からちゃんと説明する。きっと許してくれるから」

温かな体温。馴染んだ香り。

以前なら、この距離を心地よく感じたはずだった。

なのに今は、なぜか落ち着かない。

身体が無意識に強張り、俺は少しだけ横へずれた。

愛未がはっとして顔を上げる。探るような目で、そっと訊いてきた。

「真司兄……私に、前みたいじゃなくなった?」

「余計なことを考えるな」

「でも、今……避けた」

涙はすぐに滲んだ。

恨めしそうに俺を見つめる。

「ねえ、正直に言って。もしかして……結菜さんのこと、好きになったんじゃない?」

牧野結菜を?

あの上辺ばかりを飾り立てる、打算的で、可愛げのない女を?

「そんなわけあるか!」

ほとんど怒鳴るように否定した。

声の大きさに、自分自身が一番驚く。

反論なのか、言い聞かせなのか、自分でも判別がつかない。

「俺があいつを好きになるなんて、あるわけない!」

なのに口にした直後、脳裏に閃いたのは結菜の青あざだ。

それから、最後に向けられたあの目。

胸の奥がひどく詰まる。

俺が結菜を好きになる?

ありえない。

そのはずなのに、頭の中でその問いだけが蠅みたいにまとわりついて離れなかった。

病院を出たあとも会社には戻らず、別荘にも帰れず、ひとりで川沿いをあてもなく走らせた。

スマホが鳴る。

母からだった。

出た瞬間、福山彩子の鋭い声が飛んでくる。

「今どこにいるの? あなたの“いい奥さん”、本当に大したものね!」

俺は眉をひそめた。

「何だよ、母さん。またか」

「またじゃないわよ! 使用人から聞いたの。牧野結菜、最近こそこそ国際電話ばかりしてるんですって!」

「外に男でも作ったんじゃないでしょうね? 福山家の恥さらしもいいところよ!」

「だから前から言ってたの、ああいう貧乏育ちの女は駄目だって!」

国際電話。

その言葉で、頭に採用通知がよぎる。

「帰って確認する」

投げやりにそう返し、俺は通話を切った。

母が何か怒鳴っていたはずだが、ひとつも耳に入らなかった。

頭の中にあるのは、たったひとつ。

牧野結菜が、出ていこうとしている。

なら、見てやる。

あの女が一人で、どこまで持ちこたえられるかを。

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