第5章 期限が迫る
(牧野結菜の視点)
たった今、お義母さんからの電話を切ったところだ。あの人の意地の悪い言葉なんて、もう何も響かない。
「福山家がお前に与えたものは全部取り上げる」――ふふ、好きにすればいい。
私は最初から、そんなもの気にしていない。三年間、カードで切った金額も、使った一円一円も、全部帳簿に付けてある。出ていくときには全額返す。端数ひとつ残さずに。
私と福山家を繋いでいるのは、福山婆さんとの約束だけ。期限はもうすぐ切れる。……そろそろ、本当に行かなきゃいけない。
別荘へ戻り、ドアを開けた瞬間、私は足を止めた。
リビングのソファに、福山真司が険しい顔で座っている。隣には村山愛未。真新しいブランド物に身を包み、限定品らしいバッグまで提げていた。
私に気づくと、愛未はすぐ立ち上がり、見慣れた無垢な笑みを浮かべる。
「結菜さん、おかえりなさい! 真司兄が心配して、私を連れて来てくれたの。病院のこと、ちゃんと説明したくて」
「どこへ行ってた?」
福山真司が冷たく問う。
「少し歩いていただけ」
私は淡々と靴を脱ぎ、玄関で手早く揃える。
「結菜さん、真司兄に怒らないで……」
愛未が近づいて、私の腕を取ろうとした。私は身体をずらして避ける。
宙に浮いたまま止まった彼女の手。顔に一瞬だけ気まずさが走り、次の瞬間には、しおらしい表情で真司を見上げていた。
「真司兄、見て……結菜さん、本当に怒ってるみたい……全部、私のせいだよね。私がいなければ、二人も喧嘩しなかったのに」
そう言いながら、彼女はふいにバッグを持ち上げて、私の前でわざとらしく揺らしてみせる。
「ねえ結菜さん、このバッグかわいいでしょ? 真司兄が、手を怪我したお詫びだって買ってくれたの。ほんとに優しいの」
得意げな顔。滑稽でしかない。
私は彼女をまともに見ようともせず、真司へ淡く視線を向けた。
「疲れてるの。休みたい」
「牧野結菜!」
真司の声が鋭くなる。
「その態度は何だ? 愛未はわざわざ見舞いに来てるんだぞ。客に対してその言い方か?」
「客?」
私は二人を見比べた。
「福山社長は、客を寝室まで上げる趣味だったかしら」
三年前、一度だけ目にしてしまった光景。その記憶を、言葉の奥に滑り込ませる。
真司の顔色が、一瞬で鉄色に変わった。
そのとき、彼のスマホが鳴る。秘書からだろう。
真司は私をきつく睨みつけたあと、苛立ちを押し殺した声で愛未に言った。
「少し待ってろ。書斎で片づける」
そうして書斎へ消える。リビングに残されたのは、私と愛未だけ。
空気が、すっと変わった。
愛未の顔から、あの天真爛漫な仮面が落ちる。私の前まで来て、声を落とした。
「牧野結菜。自分がそろそろ消えるべきだって、わかってるんだ」
私は冷たく見返す。
「安心して。福山夫人の座は、もうすぐ譲るわ。そんなに焦らなくても」
平然とした私の態度が癪に障ったのだろう。愛未は唇を噛み、視線を横へ流した。
飾り棚の上。そこに置かれた花瓶――福山婆さんが、嫁入りの品として私にくれたもの。
愛未の口元が、わずかに吊り上がる。次の瞬間、彼女は花瓶へ手を伸ばした。
やることは見え見えだ。けれど私は止めない。こんな芝居、見飽きている。
――ガシャン。
派手な音とともに、花瓶が床で砕け散った。
同時に、書斎のドアが勢いよく開く。真司が飛び出してきて、床いっぱいの破片と、そのそばで「震えている」愛未を見た瞬間、顔がどん底まで曇った。
「牧野結菜! また何をしてる!」
愛未はたちまち彼の胸に飛び込み、涙をぽろぽろ落とす。
「真司兄、結菜さんを責めないで……わざとじゃないと思うの……ただ、この家のものは一つだって私に残したくないって、そう言っただけで……」
そのひと言で、真司の怒りが火を噴いた。
「いい加減にしろ! 今すぐ愛未に謝れ!」
茶番。心底、うんざりだ。
「謝らない。私は何もしてない」
それだけ言って、私は二人をもう見もしないまま二階へ上がった。背後で愛未の泣き声と、真司の低い宥め声が絡み合う。
夜更け。
別荘は不気味なほど静かだった。
灯りも点けず、クローゼットの奥からスーツケースを引きずり出し、床に広げる。
ここに暮らして三年。それなのに、本当に自分のものと呼べる物は驚くほど少ない。スーツケースひとつですら埋まらないほどだ。
数着の服。数冊の本。それから、製図道具一式。
それが、私の三年の結婚生活のすべてだった。
しゃがみ込み、一つずつ詰めていく。服はどれも私が自分で買った安物ばかり。真司が人に買わせた高級ドレスには、一枚も手をつけない。どうせ次は、愛未が着るのだろう。
本の背表紙には折れ跡がついている。福山真司より、ずっと長く私に寄り添ってくれたものたちだ。
製図道具の鉛筆は、細く鋭く削られていた。指先で撫でれば、わずかに毛羽だった感触がある。
安アパートで、夜更けまで図面を引いていた頃を思い出す。あの頃の私は貧しかった。けれど一筆一筆が全部、自分のための線だった。
窓の外で風が鳴り、枝がガラスを掠める。かすかな音。
そのときだった。階下から、愛未の甘ったるい声が聞こえてくる。弱々しく、様子を窺うような声音。
「真司兄、もうこんな時間だし……一人で帰るの怖いの。それに手もまだ痛くて……今夜、泊まってもいい?」
荷造りをしていた手が止まった。
息を殺し、冷たいドア板に耳を寄せる。下にいる男が、何と答えるのか。ただ、それだけを待つ。
一秒。二秒。三秒。
やがて、真司の声が落ちてきた。
「……客室は一階だ。そこで寝ろ」
――バタン。客室の扉が閉まる音。
私はゆっくり床へ滑り落ちた。背中をドアに預けたまま座り込む。
床は冷たく、その冷えが服越しに肌へ染み、じわじわと心の奥まで侵してくる。
三年前、この家に入った日も、私は同じように床に座っていた。胸いっぱいの期待を抱いて、この部屋を見上げていた。時間がすべてを変えてくれると。私の我慢も譲歩も、いつかきっと報われるのだと。
けれど千日を超える夜が過ぎても、私は彼から心のこもった抱擁ひとつ得られなかった。
私は待っていた。彼が二階へ上がってきて問いただすのを。喧嘩でもいい。以前みたいに冷たくドアを開けて入ってきてもいい。
でも、何もない。
廊下は、しんと静まり返っていた。
窓の外は黒から灰へ、灰から白へと移り変わっていく。私は膝を抱えたまま、顎をそこへ乗せた。
階下からは、ときおり愛未の笑い声がかすかに浮かんでくる。細い針みたいに、忘れた頃にまた胸を刺す。
動く気にもなれない。
この三年、何度こんな夜を一人で過ごしただろう。
真司は接待で明け方まで帰らず、書斎で仕事だと言い、あるいは「たまたま」愛未の病院に付き添っていた。私はいつも二・二メートルの広いベッドの窓側にひとり横たわり、自分の呼吸だけを聞きながら眠りについた。
そして今日、彼はついに取り繕うことすらやめた。
私はスーツケースへ目を向ける。黒く、静かにそこにある。三年分の人生の重みが、すべて詰まっているはずなのに。
三年前、私はその箱を引いてこの家に入った。今も同じ箱。でも中身はずいぶん軽い。
荷物が減ったからじゃない。心の中身が、すっかり空っぽになったからだ。
膝を抱いたまま、私はふと笑ってしまった。夜明けの淡い光の中で、その笑みは遅すぎた悟りみたいにゆっくり広がる。
笑って、笑って。
気づけば涙が零れていた。声のない涙。頬を伝い、顎を過ぎ、手の甲にぽたりと落ちる。あたたかかったはずなのに、すぐ冷たくなった。
――この芝居も、終わりにしなければ。
私は涙を拭って立ち上がった。空はすっかり明るい。
まだやることはたくさんある。弁護士への連絡。支出の照合。何も残さず、何も持たず、きれいに出ていくために。
最後に一度だけ、閉ざされたドアを見る。そうして背を向け、スーツケースのファスナーに手をかけた。
けれど私は知らない。
一階の客室でもまた、一晩中、灯りが消えていなかったことを。
福山真司は窓辺に立ち、夜通し煙草を吸っていた。指先の灰は長く積もり、外の色が漆黒から群青へ、やがて白んでいく間も、彼は振り返らなかった。ドアを開けもしなかった。
テーブル脇のスマホ画面は、夜中の3時に一度だけ点いた。連絡先を開き、牧野結菜の名前の上で長く指を止め――結局、発信しなかった。
最後まで、彼はあのドアを開けなかった。
