第8章 彼は私を押しのけた
(牧野結菜の視点)
私の言葉が落ちた瞬間、個室の空気は氷点下まで冷え切った。
福山真司の友人たちは顔を見合わせ、露骨に気まずそうに視線を泳がせる。誰ひとり、口を開けない。
村山愛未が福山真司の袖をきゅっとつまみ、泣き出しそうな声で言った。
「真司兄、結菜さんを責めないで……全部、私が悪いの。呼んでほしいなんて言わなきゃよかった……」
その“可哀想な顔”が、酒の回った福山真司の神経を完全に逆撫でした。こっちは友達の前で恥をかかされた――彼の頭の中には、それしかないのだろう。
「じゃあどうすりゃいい?」
彼は私を見据え、鼻で笑った。
「牧野結菜、お前さ。自分がどれだけ重要人物だと思ってんだ? 少し役に立てるんだ。むしろ光栄だろう」
光栄。
その二文字は、平手で頬を打たれたみたいだった。けれど不思議と、もう痛くない。
三年だ。もっとえげつない言葉も吐かれたし、もっと深く傷つけられた。私の心は何度も何度も揉みくちゃにされて、しわくちゃになった紙みたいに形を失っている。これ以上、破れようがない。
酔って傲慢で、見下すことに慣れきった男を見つめる。見知らぬ人みたいだった。――いや、たぶん私は最初から、この男のことを何も知らなかったのだ。
「光栄、ね」
私は小さく繰り返し、口の端だけで笑った。
「悪いけど、そのご栄誉は遠慮するわ。村山さんは大事なお客様だもの。私の運転が荒くて、もし何かあったら困るでしょう」
それだけ言って、私は踵を返した。
「待て!」
背後で福山真司が吼える。
「牧野結菜、出ていけるもんなら出てみろ!」
足は止まらない。
「いいか。今日ここを出たら――二度と戻ってくるな!」
二度と戻ってくるな。
何度も言われた言葉だ。これまでなら、私は立ち止まって振り返っていた。泣いて、折れて、謝って……撤回させるために頭を下げた。
怖かったから。追い出されるのが。福山夫人という肩書きを失うのが。母が失望するのが。
三年、ずっと怖がっていた。
でも今日は違う。
もう、怖くない。
背を向けたまま、私は短く返した。
「――いいよ」
たった三文字が、彼の傲慢と支配を粉々に叩き割ったみたいだった。
手がドアノブに触れた、そのとき。
カツン、カツン、と急いだハイヒールの音が迫ってくる。村山愛未が駆け寄り、両腕を広げて私の前に立ちはだかった。涙を滲ませ、必死な声で縋りつく。
「結菜さん、行かないで! 真司兄、飲みすぎてるだけなの。気にしないで……私が代わりに謝るから……」
そう言いながら距離を詰めてくる。
けれど彼女の視線は、私を見ていなかった。私の肩越し――酒の瓶が並ぶテーブルの角、その尖った縁を見ている。照明の下で、冷たく鈍い光を返していた。
「結菜さん、お願い、話を――」
言い切る前に、彼女の足がぐらりと崩れた。
「きゃっ!」
甲高い悲鳴とともに、身体がテーブルの角へ向かって倒れ込む。
また、この手口。
花瓶を割る、指を傷つける、足首を捻る。三年経っても台本は変わらない。彼女はいつだって無垢な被害者で、私は都合のいい悪役だ。
こんな安っぽい芝居、もう見飽きた。
身をかわして避けようとした。演じたいなら勝手に演じればいい。私には関係ない。
――その瞬間。
背中に、強烈な衝撃。
「どけ!」
福山真司だった。村山愛未が“倒れそう”になったのを見た彼の目には、彼女しか映っていない。前に私がいることすら見えていなかった。
大きな手が私の肩を容赦なく突く。
弾き飛ばすみたいな力だった。
身体がふわりと浮く。制御なんて、できない。
――ゴンッ!!
鈍い衝撃。後頭部が、個室の重たい木の扉に叩きつけられた。
視界が一瞬で真っ暗になる。耳の奥でキーンと高い音が鳴り続け、激痛が撞いた場所から稲妻みたいに頭中へ走った。こめかみがどくどく脈打ち、目の奥が熱く痺れ、歯の根まで浮く。
私は扉に沿ってずるりと崩れ、床へ座り込む。背中には冷たい板の感触。
後頭部に触れようと腕を動かしかけた。けれど力が入らない。綿みたいにふにゃりとして、持ち上がらなかった。
それなのに、福山真司は――私を一度も見なかった。
「愛未! 大丈夫か? どこか打ったか!」
声は私の頭のすぐ上。焦りと心配に満ちた響きが、鈍い刃物みたいに、麻痺しかけた心をじわじわ削っていく。
霞む視界を無理やり開く。ぼやけた影が二つ重なり、福山真司が“ちょうどよく”胸に倒れ込んだ村山愛未を抱き留め、しっかり守っているのだけが見えた。
村山愛未は腕の中で震え、蚊の鳴くような声を出す。
「わ、私は……大丈夫、真司兄……でも結菜さんが……」
“心配そうに”床の私を見る。
そこでようやく福山真司の視線がこちらへ向いた。
床にへたり込み、顔面蒼白で動けない私を見て、眉がわずかに寄る。
――でも、それは心配じゃない。
苛立ち。うんざり。『また始まった』という顔。
彼は、私が演技していると思っているのだ。
この三年、村山愛未の“事故”はいつだって彼の庇護を呼び、私は四十度の熱を出した夜ですら、水一杯すら差し出されなかった。彼はもう、私が痛いとも苦しいとも言わないことに慣れきっている。だから、私が倒れるはずがないと思い込んでいる。
「牧野結菜! どこまで性悪なんだ!」
福山真司は村山愛未を抱いたまま、私を見下ろして怒鳴った。
「愛未を送りたくないからって、あそこまで突き飛ばすか? お前の心は何でできてる!」
突き飛ばした?
彼女は自分で足を捻っただけだ。私を押したのは、あなただ。
なのに彼の目の中では、全部が逆転している。彼女はか弱い兎で、私は毒を持つ悪女。
言い返したかった。違う、押したのはあなたよ、と。
けれど後頭部の痛みが波みたいに押し寄せ、意識をかき乱していく。喉は何かで塞がれたみたいで、唇が動いても声にならない。
私はただ見ているしかなかった。
福山真司が村山愛未を抱いたまま、私を避けるように横を通り過ぎるのを。
彼女を守るその仕草は、あまりにも丁寧で、あまりにも優しかった。私のそばを通るときも、視線の端すら寄越さない。
福山真司は扉を開け、大股で出ていく。去り際、呆然としている友人たちに向かって怒鳴った。
「何ぼさっとしてる! さっさと救急車呼べ! 愛未を病院に運ぶんだ!」
バタン、と重い扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
世界が、しんと静まり返った。
私は床に崩れたまま、冷たい扉にもたれていた。指先を少し動かし、床を支えに立ち上がろうとする。けれど刺すような痛みで全身に力が入らない。
一度。二度。三度。
そのたび、ただ力なく滑り戻るだけだった。
物音を聞いて、クラブのスタッフが駆け込んでくる。私の姿を見た瞬間、顔色がさっと青ざめた。
私は残った力を振り絞り、彼女を見上げる。声は、落ちる寸前の葉っぱみたいにか細かった。
「すみません……救急車を、呼んでもらえますか……」
