第9章 彼女は冗談で言っているのではない

(福山真司の視点)

病院で検査を終えた村山愛未の身体には、かすり傷ひとつなかった。

彼女は俺の肩にもたれ、柔らかな声で囁く。

「真司兄、結菜さんに電話したほうがいいよ。きっとまだ怒ってる……」

牧野結菜――その名前を聞いた瞬間、俺の顔が曇った。

あの女、俺の電話を切りやがったのか。

鼻で笑い、結菜の番号を押す。

――プルル、プルル。出ない。

もう一度。

『おかけになった電話番号は、ただいまおつなぎできません』

つながらない?

胸の奥が「どくん」と嫌な音を立てる。すぐに家の固定電話へ。

……同じだ。誰も出ない。

あいつ、本当に帰ってないのか?

ふいに脳裏をよぎる。

床にへたり込み、動けなくなっていたあの姿。青ざめた顔。

違う。どうせ芝居だ。俺を怯ませて、情けを引こうとして――

そう思ったはずなのに、指先が勝手に震えた。

俺は勢いよく立ち上がり、秘書へ電話をつなぐ。

「今すぐ調べろ。牧野結菜がどこにいるか」

通話を切っても、さっきの光景が頭から離れない。

倒れた姿勢。血の気のない頬。

……いや、演技だ。そうに決まってる。

けれど――もし違ったら?

考えたくないのに、胸の奥がひやりと冷えた。

折り返しは早かった。

「福山社長、奥様は市立中央病院です。救急外来で搬送されまして……」

「何だと?」

俺は上着を掴み、そのまま飛び出す。

「部屋番号は」

「903号室です」

電話を切り、アクセルを踏み抜く。

あいつが病院? 本当に? 同情を買うためか、俺を屈服させるためか。そう思えば思うほど、湧きかけた不安は苛立ちに押し潰されていった。

――なのに、どうして踏み込む足が震えてる。

903号室の前に着き、怒りのまま扉を開けようとして――ガラス越しに見えた光景で、頭の中が弾けた。

牧野結菜はパジャマのままベッドに腰かけ、若い男と話していた。

男は検査結果らしい紙を手に、彼女へ身を乗り出している。

そして結菜は――俺の前ではいつも冷え切っていた女が――口元をわずかに緩めていた。

目の奥に、見たことのない光。

柔らかく、温かい光。

俺には一度も向けなかったものを、別の男に向けて笑っている?

目の奥が灼けるみたいに痛んだ。

――バン!

俺は扉を蹴り開けた。

「福山さん?」

男が眉を寄せて振り向く。

だがそんなもの、視界に入らない。

俺はベッドの結菜だけを睨みつけていた。

後頭部には包帯。手首には青あざ。――それすら、今の俺にはどうでもよかった。

血が一気に頭へ上り、今まで味わったことのない嫉妬と怒りが理性を焼き尽くす。

「いい度胸だな」

一歩、また一歩と近づく。

「一晩中探させておいて、お前はここで男と仲良くしてたわけか」

テーブルの花束が目に入った。俺はそれを掴み、床へ叩きつける。

ガシャン、と花瓶が割れ、花弁が散った。

「仮病で男と密会か。そんなに男に飢えてるのか!」

「福山さん、誤解です!」

男が慌てて結菜の前に立つ。

「僕は結菜の大学の先輩で、ここの医師です。昨夜、救急で運ばれてきました。軽い脳震盪で、経過観察が必要なんです」

先輩? 医師?

言い訳に決まってる。

何より――「結菜」なんて呼び方。

親しげに名前を口にされただけで、腹の底が煮えくり返った。

「お前に何の資格があって俺に口を利く?」

俺は男を突き飛ばし、結菜を睨みつける。

「お前も黙ってないで何とか言え!」

結菜の目から、さっきまでの光がすっと消えた。

そして、俺という人間を見て――静かに男の白衣の裾をつまむ。

「先輩、もういいです」

声は小さい。だが、妙に落ち着いていた。

その平静さが、逆に胸をざわつかせる。

結菜はゆっくりベッドの背へもたれ、冷たい目で俺を見返した。

泣きもしない。喚きもしない。言い訳すらない。

まるで――ピエロでも眺めるみたいな目。

その一瞬、俺は理由もなく怯んだ。

だがすぐ、怒りがそれを塗り潰す。

「これが、福山家の教養かしら?」

彼女は淡々と言った。

一言ごとに、氷の針が刺さる。

「病室で大声を出して、物を壊して……」

俺は、この冷えた態度が何より気に食わない。

まるで俺の感情など、どうでもいいと言われているみたいで。

「お前が使ってる金は全部、福山家の金だろうが! 何を偉そうに」

「お金?」

結菜はふっと笑った。だが、その笑みは目に届かない。

「福山家から受け取ったお金は、全部記録してある。出ていくとき、一円残らず返すわ」

彼女は手首のあざに目を落とし、さらに後頭部へそっと触れた。

「それから……あなたが私につけた傷も」

視線を上げる。刃みたいに冷えていた。

「一つずつ、きちんと清算しましょう」

清算――その二文字が、胸に冷水のように落ちた。

俺は固まった。

泣くか、喚くか、責めるか。そういう反応なら想像できた。

だが「清算」だと? 何を清算する。まさか、本気で俺から離れるつもりなのか。

心臓を、経験したことのない恐怖がぎゅっと掴む。

苛立ちでも怒りでもない。もっと生々しい、失うことへの恐れだ。

俺は結菜の目を凝視し、そこに演技の影を探す。

けれど――混じり気のない決意だけがある。

「牧野結菜、お前は一体何を企んでる!」

怒鳴った。だが声には、もう勢いがなかった。

自分でもわかるほど、かすかに震えている。

結菜は俺を見ることすらせず、男へ顔を向ける。口調だけが丁寧になった。

「先輩、警備員を呼んでもらえますか」

警備員――俺を追い出す気か。

怒鳴り返そうとした、その瞬間。

彼女はさらりと続けた。

「それから弁護士にも連絡を。前にお願いしていた資産関係の書類、手続きを始めてください」

弁護士? 資産関係?

頭の中が「ぶん」と白くなる。

フランスから届いた採用通知。

離婚という言葉。

金を返すと言った口ぶり。傷を清算するという言い方。

全部が一本につながった。

これは癇癪じゃない。脅しでも虚勢でもない。

――本気だ。

脳裏に、いくつもの場面が乱暴にぶつかってくる。

書類に署名する後ろ姿。スーツケースに荷物を詰める手。

俺を見る目が、期待から失望へ、そして静寂へ変わっていったこと。

今まで見向きもしなかった細部が、一気に押し寄せる。どれも刃だった。

焦りがどんどん強くなる。

俺は拳を握り締める。指先が白くなり、爪が掌に食い込む痛みで、どうにか衝動を抑えた。

ありえない。

あれほど長く俺を想っていた女が、本当に手を放すなんて。

なら、あいつはいったい何を考えている?

俺は結菜の青白い顔を見る。包帯の巻かれた後頭部。手首のあざ。

……その傷は、俺がつけた。

俺が押した。俺が病院送りにした。

俺が、あいつを別の男のいる病室へ追いやった。

その事実が、鈍い槌みたいに胸を打つ。

口を開きかけた。

何か言わなければ、と確かに思った。

謝る? 認める?

――いや、俺は福山真司だ。簡単に頭を下げる人間じゃない。

だが、ここで何も言わなければ。

本当に、結菜は行ってしまうんじゃないか。

拳を握り締めたまま、俺はただ彼女を見ていた。

この女は――いったい何をするつもりなんだ。

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