第3章
美月視点
黒沢の妻、という仮面を被って二ヶ月。この豪奢な屋敷は、私にとって鉄格子のない牢獄であり、同時に、復讐のための狩場でもあった。隅々まで探り尽くしたが、里奈の死に繋がる決定的な証拠は、まだ見つけられていない。黒沢の底知れない警戒心は、私の捜索を常に危険な綱渡りに変えた。
その日、私は彼の書斎を掃除するふりをしていた。重厚なマホガニーの机、その引き出しの奥。丁寧に拭き清めていると、指先に硬い感触が当たった。ビロードのクロスに大切そうに包まれた、古い銀の写真立て。中には、セピア色に褪せた赤ん坊の写真が収められていた。二十年以上は前のものだろうか。裏には日付と、掠れたインクで記された『K』のイニシャル。
黒沢に子供が? そんな話は、一度も聞いたことがない。だが、この写真が彼にとって特別な意味を持つことは明らかだった。私は日付を脳裏に焼き付け、すべてを元の場所へと寸分違わず戻した。これは、彼の堅い甲殻を砕くための、重要な楔になるかもしれない。
死ぬ前、里奈は言っていた。黒沢は秘密の金庫を隠していて、そこには彼の罪の証拠が眠っているはずだと。だが、その金庫はどこに? 暗証番号は? 手がかりは何一つなく、時間だけが焦りを募らせていく。それでも私は、完璧な妻を演じ続けなければならなかった。
クラブの天井では、巨大なクリスタルのシャンデリアが偽りの光を振りまき、その下には、虚栄心の仮面をつけた知識人たちが集っていた。私は優雅な深緑のベルベットのドレスをまとい、黒沢の腕に寄り添いながら、人々の輪の中心に凛として立つ。黒沢夫人として、これほど重要な学術晩餐会に出席するのは初めてだった。
「美月、そのドレス、よく似合っている」
黒沢が耳元で囁く。腰に回された腕が、所有物だと誇示するように、私の呼吸を妨げるほど強く締め付けられた。
私は微笑んで頷きながら、視界の隅でホール全体を見渡した。何人かの若い女子学生が、羨望の眼差しで私たち——正確には、黒沢——を見つめている。彼の視線もまた、時折その若く瑞々しい顔の上を、品定めするように彷徨っていた。特に、白いドレスを着た少女——彼女の姿は、里奈を、そしてかつて私の人生で最も大切だった誰かを思い出させ、胸の奥が鋭く痛んだ。
——泣くな、美月。今は、その時じゃない。
私は下唇をきつく噛みしめ、込み上げる涙を意志の力で押しとどめた。
「美月さん!」
年配の教授夫人が近づいてきて、私の辛い記憶を遮った。
「本当に幸運ね。昭彦様のような素晴らしい方とご結婚なさるなんて」
私は穏やかに微笑んでみせる。
「ええ、本当に。このような夫を持てて感謝しておりますわ。日々、多くのことを学ばせていただいております」
黒沢は私の腰をぐっと引き寄せ、得意げな笑みを浮かべた。
「美月は私がこれまで出会った中で、最も知的で美しい女性なんです。幸運なのは、私のほうですよ」
黒沢が年配の教授たちに研究資金の話で引き留められている隙に、私は行動を開始した。シャンパングラスを手に、ボールルームを巡る。アルコールと虚栄心に煽られたエリートたちは、一様に油断している。情報を集めるには、絶好の機会だ。
隅の方で、中村助教授が二人の同僚とひそひそ話しているのが目に入った。中村は黒沢の腹心の一人。彼なら、何かを知っているはずだ。私は何気なくバーカウンターに近づき、飲み物を選ぶふりをしながら、神経のすべてを耳に集中させた。
「例のアジア系の学生は、どうなんだ」
知らない声が尋ねた。
「ああ、ウィットニー・リンか。いい選択だな」
中村の声には、かすかに酔いが混じっている。
「若くて、頭もいい。それに、あんたに心酔している。黒沢先生にはひと声かけておくのを忘れるなよ。いつもの手はずでな」
「いつもの手はず、とは?」
中村は、くつくつと喉の奥で笑った。
「保険として、録音を残しておくのさ。こういうことには……用心が必要だからな」
シャンパングラスを持つ手が、微かに震えた。録音? 保険? 胃が氷のように冷たくなる。これは黒沢一人の犯罪ではない。学界という聖域に張り巡らされた、権力と欲望の巨大な蜘蛛の巣だ。あのアジア系の少女、ウィットニー・リンは、次の犠牲者……。
もっと詳しく聞こうとした、その時。中村が不意に振り向き、私と視線がぶつかった。心臓が喉から飛び出しそうになる。私は咄嗟によろめくふりをして、ドレスにシャンパンをこぼした。
「あら……!」
私はわざと舌足らずな声で喘いだ。
「少し……飲み過ぎてしまったみたい……」
中村はすぐに手を伸ばして私を支えた。その手は、計算ずくで私の腰へと滑り落ちる。
「黒沢夫人、大丈夫ですか。どこか、お休みになる場所までお連れしましょうか」
彼の手はさらに大胆になり、私は嫌悪感を押し殺して、酔ったふりを続けた。
「あきひこ、さんの……そばに……」
「黒沢先生は、まだお話が長引くようですよ」
中村は私の耳元に寄り、その指がむき出しの背中をいやらしくなぞった。
「よろしければ私が、そのドレスの染みを、どこか静かな場所で拭いて差し上げましょうか……」
その時、背後から氷のように冷たい声がした。
「中村。私の妻が、お前の助けを必要としているようには見えんが」
中村は弾かれたように私から手を離し、気まずい笑みを浮かべた。
「いや、昭彦、私はただ……」
「何をしようとしていたか、分かっている。……次はないぞ」
黒沢の声は穏やかだったが、その目は凍てつくような脅威に満ちていた。彼は私の肩を掴み、中村から引き離す。
「帰るぞ、美月」
屋敷に戻ったのは、深夜に近かった。リビングは、揺らめく暖炉の火に照らされているだけだ。ハイヒールを脱いだ途端、背後から黒沢の詰問するような声が飛んできた。
「美月。今夜、あの新しい助教授と何を話していた」
私は振り返り、慎重に言葉を選ぶ。
「ただの社交辞令ですわ。何かございましたの?」
「では、中村は?」
黒沢の声が、刃物のように鋭くなる。
「ずいぶん、親しげに見えたがな」
「それは……私が飲み過ぎてしまっただけ。あのままだと転びそうだったから、中村先生が支えてくださったのよ。あなたも、すぐにいらしたでしょう?」
黒沢は一歩近づき、顔から完全に笑みを消した。
「本当にそうか。では、なぜさっきからずっとバーの周りをうろついていた。何を盗み聞きしていたんだ」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。——気づかれていた。
「どういう意味ですの」
私は静かに返す。
「ただ、アルコール度数の低いお酒を探していただけですわ。それがいけないことでしょうか」
黒沢は、次の瞬間、私の手首を掴んだ。骨が軋むほど、力が強い。
「忘れるな。お前の名前は、もう黒沢だ。お前の一挙手一投足が、私の評判に影響する。もし次に他の男といちゃついているところを見つけたら……どうなるか、分かっているな」
彼の爪が肌に食い込み、目に涙が浮かぶ。だが、これは彼の支配欲の現れの、ほんの序章に過ぎない。黒沢は、犠牲者たちの苦しみを味わうように、私が恐怖に怯える姿を見るのが好きなのだ。
この、化け物が。
「申し訳ありません、昭彦さん」
私は従順に頭を下げた。
「今後は、もっと気をつけます」
その時になってようやく彼は私の手を離し、偽善者の仮面を被って囁いた。
「ただ、君を愛しすぎているだけなんだ。私のものを、誰かに狙われるのは我慢ならん」
彼が二階へ上がろうと背を向けた時、私は赤く腫れ上がった手首をさすりながら、瞳に浮かんでいた恐怖を、冷たい決意へと変えていった。今夜の恐怖は、確信という名の贈り物。
——彼らは、組織的に罪を犯している。







