第2章 なぜ、彼なの?

抵抗する心は静かに消え失せた

雪穂はわざとそうしたのだ。

非常階段の隙間から目にした光景が、次々と脳裏をよぎる。

桐谷真の手は空中で止まり、やがてそっと佐藤京の頭に降り置かれた瞬間。

冷徹で皮肉めいた感情が胸の奥底から湧き上がり、爆ぜる。

彼はあちらにいて、私はこちらにいる。

雪穂は胸元を押さえていた両手をゆっくりと離す。

男の呼吸は荒く熱く、迫り寄せてくる。

ヒノキの香りの奥に、微かな薬の臭いが漂っていた。

鎮痛剤を過剰に摂取したせいか、彼は半分朦朧とし、意識が曖昧になっている。

だがこの重苦しさの裏には、息が詰まるほどの一点の集中が宿っていた。

熱い奔流が雪穂の肌を隅々まで巡る。これが今夜、唯一現実を実感できる糸口だ。

パーティで飲み干した強いお酒も、彼女の思考を濁らせていく。

鋭い痛みが走り、彼女は下唇を噛み締める。

やがて痛みは灼熱へと変わり、波打つように押し寄せ、二度にわたって頂点に達した。

雪穂は顔を男の肩に預け、目を閉じて何も考えないようにする。

今夜だけは思索を禁じる。この暗闇が永遠に自分の世界を覆い尽くしてくれたら、どれほど救われるだろう。

意識が遠のきかけた刹那、男の心が唐突に明晰を取り戻した。

「……中に……」

どもりながら呟いたが、時すでに遅し。

男の体が大きく痙攣し、そのまま重く身を沈めて眠りに落ちる。

雪穂は身動きせず、天井を見上げ続けた。天井は真っ暗で何も視えない。

目頭が熱くなり、涙が頬を伝い落ちる。

拭おうともしない。

自分が泣いていることさえ、気づかずにいた。

今夜、彼女の体内の何かが初めて自らの意志を離れ、溢れ出したのだ。

男の呼吸が完全に穏やかな深い眠りに落ちたのを確かめ、雪穂はゆっくりと起き上がる。

暗闇の中で手探りで自身のワンピースを探し、身に着ける。

ファスナーを上げる際、細やかな金属の擦れる音が響き、男の呼吸も浅く速まった。

雪穂は動きを止め、十まで黙って数える。

呼吸が再び安定したのを見届け、足元のバッグを拾って立ち上がる。

ドアへ向かう途中、一度振り返った。

廊下から差し込む細い光が扉の隙間から流れ込み、ベッドに横たわる男の顔を柔らかく照らしていた。

通りの良い鼻梁、凛々しく威厳に満ちた眉骨。眠りについている間さえ、人を圧する静かな気迫が漂っている。

雪穂の手がドアノブの上で止まる。

この容貌に覚えがあった。

昨日、宴が始まる前、桐谷真が耳元で囁いた言葉が蘇る。

「あちらは叔父の桐谷淵教授だ。お会いしたらきちんと挨拶をしなさい」

当時、人混み越しにスーツ姿の背中をちらりと見ただけで、息苦しい雰囲気だけが記憶に残っていた。

今、その顔は二歩先の枕元にある。

桐谷淵。

この名前がゆっくりと心に刻まれていく。

彼は桐谷家取締役会の執行役員であり、特聘教授。

黒川大学の権力構造を実質的に支配する頂点の人物。

桐谷真の叔父——つまりこれから私は、義理の姪婿として、彼に恭しく接しなければならない。

加えて、雪穂が密かに進める独立プロジェクトの最終決裁権も彼が握っている。

婚約を解消したいなら、彼のサインが必要。

桐谷家との縁を完全に絶ち切りたいとしても、まず彼の許可を得ねばならない。

どこへ逃れようとも、桐谷淵という存在が行く手を塞ぎ続ける。

胃の奥から冷たい戦慄が這い上がってくる。

雪穂は歯を食いしばり、涙を飲み込む。

今夜、何度も何度も感情を抑え込む練習を重ねてきた。

頭が混乱していたのは薬のせいか、アルコールのせいか、あるいはその両方か。辺りは暗く、私の顔を見られるはずがない。

それは願望ではなく、綿密な計算だ。

今夜、唯一冷静に思考することを許された瞬間。

深く息を吸い、そっと扉を引き開ける。

廊下の角を曲がろうとした時、大事なものが欠けていることに気づいた。

銀色のタッセルイヤリングのペア。六ヶ月間生活費を切り詰めて特注した大切なイヤリングの片方が、どこかへ消えてしまった。

もう、過去の私には戻れない。


廊下の光の届かない暗い隅に、一人の女が佇んでいた。

雪穂の足音が遠くなり、エレベーターの扉が静かに閉まるのを見届けて、女はようやく身を動かす。

ゆっくり歩み、特別休憩室の前にしゃがみ、手の中の品物を眺める。

銀色のタッセルイヤリング。

女はイヤリングを扉の隙間から室内へ滑り込ませ、床にそっと落とした。

白月湖畔のマンションに戻った時、桐谷真はまだ帰宅していなかった。

雪穂は浴室へ入り、お湯の温度を最高に上げる。

熱い湯が全身を洗い流す中、彼女は微動だにせず立ち尽くす。

洗い流せるものもあれば、一生消えないものもある——今夜、彼女は初めてこの事実を痛感した。

着替えを済ませ、夜明け前の静けさの中、一人ベッドの縁に腰掛ける。

妹は今も桐谷家専用リハビリ施設で療養を受けている。

毎月かかる分子標的治療費はすべて桐谷家が負担してくれている。

最初に裏切ったのは彼だ。その後、私はこうしたことを起こした。

この思いだけが、雪穂の心に残る最後の砦となっていた。

空が白み始める頃、鍵が回転する音が響く。

桐谷真が軽やかに室内へ入ってくる。髪は少し湿っており、体からは入浴後の清らかな香りが漂っている。

「まだ起きていたの?」

低い声で問い、不自然な安らぎを含んだ笑みを浮かべる。

「今日のパーティー、ずっとそばにいられなくて本当に申し訳なかった」

「お腹が空いた」

雪穂は膝を掴んでいた手を離し、立ち上がる。

桐谷真は一瞬間を置いて答える。

「何か作ってあげる」

しばらくしてテーブルに二皿の目玉焼きが並べられ、ケチャップで歪んだ泣き顔が描かれていた。

「謝罪の印だよ」

照れくさそうに笑いながら告げる。

「今日の午後、家で小さな集まりがある。母さんが君を呼びたがっていて、親族に顔を出してほしい」

雪穂は牛乳を一口啜り、「わかりました」と返す。

食事の最中、桐谷真は何気なく指先で雪穂の手の甲に触れた。

雪穂はさりげなく手を引っ込め、皿を寄せるふりをする。

桐谷真はそれに気づかないふりをし、話を続ける。

かつて指一本触れただけで耳の付け根まで紅潮していた少年は、今や他の女の痕跡を消し去り、ケチャップで泣き顔を描くだけで、すべてが許されると思い込んでいる。

雪穂は心の奥で冷めた思いに浸る。


午前七時、桐谷淵が国際学術交流センター最上階の廊下に姿を現す。

昨夜とはまったく異なる仕立てのスーツを身にまとい、ベルトは寸分の緩みもなくきっちり締められている。

今朝になって、ひどい頭痛の兆候は一切見られない。

廊下で待機していた陳補佐が駆け寄る。桐谷淵は内ポケットから品物を取り出し、渡す。

銀色のタッセルイヤリングのペアだ。

「今朝、室内の床で拾いました」

無機質な口調で語る。

「昨夜、誰かがあの部屋に侵入したのは確かだ。自身の体の状態は私が一番把握しているが、事実は事実だ」

陳補佐はイヤリングを受け取り一瞥する。

「普通のアクセサリーのように見えます」

「持ち主を特定し、製造元まで追跡せよ。急ぐ必要はない、手順を正確に進めること」

「承知いたしました」

エレベーターの扉が閉まり、廊下は再び静寂に包まれる。朝日がカーペットに長い影を落としていた。


午後、黒いセダンが会場入口に停車する。

ドアが開き、桐谷淵が降り立つ。

端正な襟元のスーツを着こなし、沈黙の中に人を圧する冷徹な眼光が宿っている。

陳補佐が主任として後ろに従う。

桐谷真が半歩前に出て深く一礼し、雪穂の方を向き小声で指示する。

「挨拶を」

雪穂は目を伏せ、靴先を見つめる。

一瞬、思考が真っ白になる。

昨夜の暗闇、肌に残る体温、廊下の灯りに照らされた鋭い眉骨と高い鼻梁……

深く息を吸って顔を上げるが、相手の瞳を捉えることはせず、視線をずっと顎の辺りに留め、柔らかな声で告げる。

「桐谷教授、お時間を割いていただき、ありがとうございます」

二秒間の沈黙が流れる間、雪穂の手のひらに汗が滲み、背中の筋肉は硬くこわばっていた。

「中へ入ろう」

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