第3章 あ、喋れるんだ

桐谷淵の声は低く簡潔で、一切の感情の起伏がなかった

彼の視線が雪穂の顔を一瞬なぞった後、何事もなかったかのように横を向く。

雪穂は桐谷真の後を追って歩を進める。

《認識されず。痕跡は残っていないはず》

手のひらの汗は一向に引かない。

昨夜のあの部屋は、今なお目に見えぬ境界となって、私とこの男の間に横たわっている。

疑う余地などない。

木製の衝立を抜けると、応接室全体を包み込む重厚な気配が押し寄せる。

室内には十数人が既に集まっていた。

桐谷家の親族や知人たちは桐谷真の姿を見ると自然と取り囲み、挨拶の声が室内に満ち満ちて響く。

昨夜の暗闇、肌に残る温もり、廊下の灯りに浮かんだ横顔の輪郭——すべてが一気に脳裏に蘇る。雪穂は歯を食いしばり、追憶が溢れ出すのを必死に抑え込む。

桐谷真は長老たちと談笑する合間に、一度彼女の方を振り返る。

中年の婦人が雪穂のすぐ脇を通り過ぎ、彼女の顔をちらりと眺めては素早く視線を逸らした。

全員が着席する直前のわずかな静寂の中、桐谷淵が脇の通路から姿を現す。薄灰色のスーツを身にまとい、ベルトは緩み一つなく厳格に締められている。

陳補佐がその後ろに従う。一人の一族長老が雪穂の方へ手を差し伸べ、紹介するように語る。

「明遠、こちらは陳の婚約者だ」

「さあ、娘さん、叔父さんに正式に挨拶をしなさい——」

瞬く間に室内のすべての視線が二人に集まる。

雪穂は口を開こうとして二秒間止まる。

言葉が思いつかないからではない。この二秒の間、桐谷淵の視線がゆっくり室内を巡り、最終的に彼女の身に落ちたからだ。

桐谷真はそれに気づき、そっと彼女の腕を軽く叩く。

「桐谷教授……はじめまして。宮本雪穂と申します」

声は自身が想像していたよりもずっと穏やかだった。室内が静まり返り、桐谷淵の視線が一秒間彼女の顔に留まった後、彼が口を開く。

「話せるのだな。入ってきた時に三文字しか発しなかったから、陳が口のきけない娘を連れてきたのかと思った」

数人の長老が低く笑い声を上げる。桐谷真が穏やかに口を挟む。

「叔父様、その冗談は行き過ぎです。雪穂は長老の皆様の前で緊張しているだけです」

雪穂は目を伏せ、微笑みを絶やさない。

「無礼とされる行いだ。人が悪意を抱くからではなく、ただ礼儀に欠けると見なされるだけのこと」

もう十分だ。本心はこれほど露わになってはいない。

胸の奥には歓喜と恐怖が同時に渦巻いていた。


長テーブルへ向かう際、桐谷真が雪穂の隣に寄り、小声で囁く。

「心配しないで。叔父さんは根っから率直な性格なのだ。それに帰国して二年も経っていないし、家族の集まりに滅多に出ない。これから頻繁に会うこともないだろう」

「わかりました」雪穂は柔らかく答える。《私はあなたが思うよりずっと理解している》

「今後会う機会は少ないはずだ」彼は心底からそう慰め、本心からそう信じ込んでいた。

だが雪穂は真相を知っている。

桐谷淵は彼女が密かに進める独立研究プロジェクトの最終審査者であり、上越大学の学術界に君臨する絶対的権威だ。

この大学に身を置き続ける限り、逃げ出そうとするたび、彼の視線から逃れる術などない。

距離を置こうとすればするほど、現実は私を再び同じ空間へ引き戻す。

雪穂はその思いを押し殺し、桐谷真の後ろに腰を下ろす。背筋を伸ばし、一言も発さない。


長老たちが着席すると、再び桐谷真を中心に談話が続く。誰一人雪穂に話しかける者はいない。

昨日の婚約披露宴の華やかさは過ぎ去り、食卓の上には何も並んでいない。

着席して間もなく、陳珠莉が身を乗り出し、桐谷風斗の耳元で何か囁いた。

桐谷風斗の視線が陳珠莉の顔を離れ、無機質な眼差しで雪穂の顔を一瞬なぞると、すぐに他へ向けられる。

視線を感じた雪穂は思わずスカートの裾を掴む。

背中に細やかな汗が滲む。彼女は知らない——陳主任補佐がイヤリングの事件調査経過を逐一報告し続けていることを。


席が整おうとした瞬間、玄関の扉が再び開く。

桐谷真の母が遅れて姿を現し、その後ろには雪穂がよく知る顔があった。

白い水玉ワンピースに繊細なメイク、胸元に小さなチェーンバッグを掛け、計算し尽くされた優しさと無邪気さを漂わせている。

《佐藤京》

「陳、どうしてジョジョを連れてこなかったの?」桐谷の母は柔らかい声で問い寄り、彼の左側の空席を指す。「ジョジョ、ここに座りなさい」

桐谷真の表情が一瞬硬くなる。「母さん、今日の集まりは私と雪穂のためのものです——」

「家族同士なのに、堅苦しくする必要はないわ」言いながら、彼女は既に佐藤京のために椅子を引いていた。

雪穂はテーブルの下で手をぎゅっと握りこぶしにする。

昨夜の光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。

今日この女は長老たちに愛でられ、婚約者である私の隣の席に座ろうとしている。

胃の奥から生理的な悪寒が湧き上がる。

雪穂は立ち上がる。食卓の全視線が一斉に彼女に集まる。

桐谷真がテーブルの下から雪穂の手首をそっと掴み、小声で懇願する。

「雪穂、座ってくれ。この件は私がきちんと処理する——信じてくれ」

「宮本様、体調が悪いのですか?」佐藤京の声が柔らかく沈み、目尻に涙を浮かべ、上目遣いで見上げる。「私がここに座ることで不快な思いをさせてしまうのなら、席を移ります。ご迷惑をおかけしているのでしたら……」

「ではお伺いしますわ」雪穂は穏やかな眼差しを佐藤京に向ける。「佐藤さん自身も、この席には相応しくないと自覚していらっしゃいますよね?」

佐藤京は身動き一つ取れず硬直し、食卓全員の注目の的となる。

テーブル周囲の空気が凍りつき、しんと静まり返る。

数人の長老が顔を見合わせ、佐藤京は桐谷の母に助けを求めるよう視線を送る。

桐谷の母は顔色を変え、雪穂を諭すように話し出す。

「雪穂、京のことは……」

「佐藤さんを責めているのではありません」雪穂は軽く言葉を遮り、視線をゆっくり席に着く長老たち一人ひとりを巡らせる。

声は低いが、一語一語が鮮明に響き渡る。

「もしどなたかが佐藤さんを桐谷家の一員と認めてくださるのなら、私は即刻この席を譲ります」

誰も口を開かない。桐谷の母も言葉を飲み込む。

佐藤京は両目を赤く腫らし、桐谷真を見つめる。

重い声が長テーブルの一番奥から響き渡る。この声が届いた瞬間、室内の誰もが息を潜める。

陳補佐が半歩前に出る。

桐谷淵がゆっくりと湯呑みをテーブルに置く。

「桐谷家と縁のない者は、退席せよ」


雪穂はゆっくり、限りなくゆっくりと息を吐き出す。

視線が無意識にテーブル最奥の男へ向く。

桐谷淵は右側の長老と小声で談笑している。さっきの一言は単なる儀礼的な宣告に過ぎなかったかのように、何事もなかった穏やかな面持ちを保っている。

雪穂は視線を引き戻し、目を伏せる。膝の上で固く握り締めていた指も静かに緩む。

《ありがとう》


三皿目の料理が運ばれてきた時、桐谷真のスマートフォンが微かに震える。

彼はテーブルの下で画面を確認すると、すぐさま画面を下に向けて伏せる。

しばらくして箸を置き、雪穂の耳元で囁く。

「少し用事ができた。携帯を取りに行ってくる。食事が終わったら一緒に家へ帰ろう」

雪穂は顔を上げ、彼を見つめる。

表情は落ち着いているが、目尻には過剰に丁寧な気遣いが漂っていた——雪穂は知っている、この表情は何かを隠している時だけに現れるものだ。

「大丈夫です、先に行ってください。私はタクシーを呼びます」

「ここは場所が不便だし、電波も弱い」

「彼の方が傍に必要としていますわ」雪穂は柔らかく遮り、微かな笑みを浮かべる。「タクシーは自分で手配できます。ご心配なく」

桐谷真は一瞬ためらった後、頷く。「ではここで待っていてくれ、すぐ戻る」

彼は二度と戻ってこなかった。


祝宴が終わり、桐谷家の親族たちは次々と車に乗り込んで去っていく。

砂利道が夕闇の彼方へ延び、やがて辺りは静けさに包まれる。

雪穂が最後に門を出る人間だった。

スマホを開き、配車アプリを起動する。

画面に文字が浮かぶ。

《ご利用エリアに現在車両がございません。待機時間:40分以上》

かかとを地面に強く押し付ける。

腰の奥に鈍い痛みが走り、昨夜から一向に癒えない。

痛みの根源がどこにあるか、雪穂は鮮明に記憶している。

スマホをバッグにしまい、道端を歩き始める。

砂利が足元できしむ音が、一歩一歩寂しく響く。

まだ遠くへ進まないうち、背後から低いエンジン音が迫ってくる。

車がゆっくりと横に停車し、後部座席の窓が音もなく下がっていく。

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