第4章服、どうしたの?
雪穂は振り返らずとも誰だか悟っていた
道端に佇み、濃い色の車体に映る自身の姿をしばらく眺めた後、ゆっくりと顔を上げる。
陳補佐は既に車から降り、礼儀正しく彼女の行く手を遮りつつ、一歩も詰め寄らない距離を保っていた。
「宮本様、桐谷教授がお会いになりたいそうです」
この言葉が耳に届いた瞬間、雪穂は深い水の中へ石を投げ込んだような心地になる。
水面は鏡のように穏やかだが、水底では何かがゆったりと蠢いている。
これは招待ではない、命令だ。
一瞬間を置き、深く息を吸って気持ちを落ち着かせ、車内へ身を滑り込ませる。
車内に音楽は流れていない。
雪穂は後部座席のドア側に座り、背筋を伸ばし、両手を膝の上に重ねる。
昨夜の華やかな正装とは打って変わった装いで、仄かで甘い香りが体から漂い、柔らかく、確かにそこに存在していた。
桐谷淵は目の端で彼女を一瞥しただけで、すぐさま視線を前方道路へ戻す。
「彼はどこにいる」
疑問の色など一切ない、断定的な声だ。
雪穂の心がひとつ跳ねるが、顔には何の表情も浮かばない。
「急用ができたそうなので、私だけ先に帰ることにしました」
桐谷淵はそれ以上追及しない。
車内は再び静けさに包まれ、雪穂がそっとため息をつこうとした時、彼の声が響いた。
「私のことが怖いのか」
雪穂は一瞬呆然とする。
あまりに率直な問いかけに、言い繕う術が思いつかない。
顔を横に向け、この距離で初めて真正面から桐谷淵を見つめる。
彼も彼女を見返していた。瞳は穏やかで感情の起伏など微塵もなく、黙って何か判断を下している様子だ。
雪穂は否定も肯定もせず、ただ静かに頭を垂れる。
約二分間の沈黙の後、桐谷淵が再び口を開く。
「お前は今や桐谷家の準家族だ」
声に温度はなく、校則を読み上げるように淡々としている。
「今日の集まりでの振る舞いは、適切ではなかった」
雪穂の胸がきゅっと締まる。——昨夜の出来事のことかと一瞬思った。
「……どういう意味でしょう」
自身でも驚くほど、声は落ち着いていた。
桐谷淵は続ける。
「客人の出自を公の場で問い詰める行為は、動機がどうであれ、桐谷家の人間が私的な確執を表に出すべきではない」
言葉を聞き、雪穂はすべてを理解した。
彼が指しているのは昨夜ではなく、今日の宴で立ち上がり佐藤京を問いただした瞬間のこと。
自分のために庇ってくれたのだと思い込んでいたが、彼が気にかけていたのはただ桐谷家の体面と秩序だけで、彼女の境遇など眼中になかった。
「ご指摘ありがとうございます、桐谷教授。今後はより慎んで行動いたします」
雪穂は顔を上げ、礼儀正しく微笑んで答える。
桐谷淵は審査するように彼女を眺めた後、何も言わない。
間もなく車は街の交差点に停まる。
雪穂が切り出す。
「教授にはまだ用事がおありでしょう。こちらで降ろしていただけますか」
桐谷淵はすぐには答えず、車内に二三秒の沈黙が流れた後、重い口調で呟く。
「昨夜——」
雪穂の呼吸が止まる。
たった三文字の言葉が発せられた瞬間、全身の神経が張り詰め、背筋が一本の棒のように硬くなる。
視線を前方に固定し、顔の筋肉を一切動かさず、無理な笑みを浮かべ続ける。
沈黙。
雪穂は全身の力を振り絞って身を捻り、桐谷淵の視線と真正面からぶつかる。
彼の瞳に一瞬異色の光が走ったが、すぐに消え失せる。
それ以上何も語らない。
車のドアが開く。
足を地面に着けた途端、両脚がふらつく。
立ち直り、振り返って告げる。
「失礼いたします」
扉が閉まり、専用車は静かに走り去っていく。
車のテールランプが角を曲がり視界から消えるまでその場に佇み、雪穂はゆっくりと息を吐き出す。
雪穂はすぐにマンションへ帰らなかった。
北区の閑静な路地裏にしばらく立ち、周囲を見渡した後、大学病院外壁沿いにある24時間無人薬局へ向かう。
機械の青い画面が夕闇の中で点滅している。
画面を眺め、指を空中に宙吊りにしたまま数秒間硬直させる。
薬の箱が取り出し口から滑り出てくる。
箱を手に取り一目確認した後、包装を開け錠剤を口に放り込み、ミネラルウォーターで飲み込む。
空き箱を最小限まで折り畳み、最寄りのゴミ箱の底へ押し込む。
立ったまま病院外壁の監視カメラ角度を確かめる。
薬局自動販売機のある側はカメラの死角になっていた。
これを幸運と呼べるのか、自分にも分からない。
立ち去ろうとした時、販売機画面下部の細かい文字が目に入る。
《本品は緊急避妊薬です。避妊成功率は約85%。必要に応じ72時間以内に医療機関で受診を推奨いたします》
雪穂は三行の文字を三秒間凝視した後、背を向け歩き出す。
マンションの塀は湖に面している。
雪穂は電気をつけず窓辺に腰を下ろす。
妹からビデオ通話がかかってくる。
相変わらず柔らかい声で問いかける。
「今日疲れた?ご飯は食べた?」
雪穂は無理に笑顔を作って答える。
「大丈夫、全然疲れてないし、たくさん食べたよ」
通話が切れると、頬の笑みが次第に消え落ちる。
スマホ画面を見下ろす。
桐谷真の位置情報はリアルタイムで更新され続けている。
彼の居場所は一時間以上動かず大学外の一角に留まり、マンションから車で二十分ほどの距離だ。
彼からは何のメッセージも届かない。
午後八時半過ぎ、玄関の鍵が回転する音が響く。
桐谷真が室内へ入ってくる。薄灰色のパーカーに着替えていた。
雪穂はソファから顔を上げ、彼を見る。
「服を着替えたのね」
「うん」
何げなくカバンを置きながら話す。
「午後の会議でコーヒーをこぼされちゃって、学生会室で着替えてきた」
「どこで着替えたの?」
「学生会の執務室だよ」
一瞬の沈黙の後、彼が問う。
「何かあったの?」
雪穂は黙ったままずっと彼を見つめ続ける。
桐谷真は近づき、隣に腰を下ろすと、肩に腕を回そうとする。
「今日は辛かっただろう、宴のこと……大丈夫?」
声は穏やかだ。雪穂は腕を払いのけず、わずかに身をかわすだけで、彼の腕は自然と肩から滑り落ちる。
雪穂は目を閉じる。
《離婚したい》
言葉が棘のように心に突き刺さり、力を込めて引き抜く。
妹の分子標的治療プランは桐谷家リハビリ施設の医師が作成し、費用はすべて無償。
自身が研究するコアアルゴリズムの学習データセット半分は桐谷真の研究室サーバーに保管され、彼はいつでも閲覧・複製可能。
今の私には何もない。
婚約はいずれ破棄される。だが、今はまだ時期尚早だ。
雪穂は目を開け、表情を平常に戻す。
「以前おっしゃっていた、研究室のAI分野補助研究員のポスト、空きがありますよね?」
何気なく思い出したように切り出す。
「応募したいのですが」
桐谷真の手が動きを止める。
「君が?」
驚いた様子の後、柔らかく笑う。
「君ほどのトップクラスAI研究者が補助研究員を務めるなんて、勿体無い話だよ」
「もっとあなたの近くにいたいの」
雪穂は静かに彼を見つめて告げる。
「最近、二人の距離が遠くなった気がするから」
言葉はあまりに的確で、桐谷真は一瞬言葉を失う。
彼女を眺める瞳に、後ろめたさ、警戒心、それとも別の感情が過ぎるのか。雪穂は読み取ろうともしない。
「検討しておく」
やや口調を変え、最終的に答える。
「あのポストは諸事情が複雑だから」
雪穂は追及せず、ただ頷く。
「わかりました」
彼女は彼の研究室に入りたいのではない。
必要なのは、彼の情報ネットワークへ潜り込むこと。
彼のデータ閲覧権限の範囲を把握し、桐谷家の怒りを買わぬよう、密かに自身の研究データを移行する手段を探さなければならない。
《これより、去るために必要なパスワードを集め始める》
