第6章 いつまで待つの?

第六章 雨上がりのカフェ

カフェの扉がその瞬間、外から押し開かれた。

冷たく湿った空気がなだれ込み、雨後特有の土のにおいと夜風の冷気を運んでくる。

宮本雪穂はカウンター脇の椅子の背もたれ裏に立ち、鞄の紐を肩にかけ終えたところだった。店員のすぐ近くの席へ移ろうとしている —— 男が次々と与えてきた不快な時間を一つ一つ克明に数え上げ、これ以上動かなければ事態が自分の制御できる限界を超えると悟ったからだ。

男はすぐ後を追ってきた。

彼女の真正面半歩まで回り込み、片手で椅子の背もたれに手を置く。拒絶されたことでかえって興味をそそられたような笑みを浮かべ、彼女の一歩一歩の譲歩を誘いと受け取っている様子だ。

「席を変えるのか?俺が一緒に座ってあげるよ」

雪穂は振り返らず、そのまま前へ進む。

男は再び彼女の前方を塞ぐように回り込み、目指す椅子へ手を伸ばし言葉を続けようとした —— その時雪穂は足を止め、ゆっくり目を上げ、穏やかに彼を見つめた。

何も語らず、ただ眺め続ける瞳には恐怖も媚びもなく、徹底的に冷めきった疲労だけが宿っていた。何度も磨かれて光沢を失ったガラスのように、映し出せるのは輪郭だけになってしまったかのように。

その視線を受け、男の笑顔が一瞬硬直する。

言い返そうと口を開けた矢先、背後から人が歩いてくる。

足音は速めず、ただ男の脇に立ち止まり、上から下へ一瞥をくれただけ。

一言も発さない。ただ見下ろしただけなのだ。

その視線が後首に降り注いだ瞬間、男の背中に得体の知れない寒気が走る。

横を向き、温度のないほど冷静な瞳とぶつかり、言葉が詰まって出てこない。

陳補佐が穏やかで礼儀正しい口調で話す。「失礼ですが、どいていただけますでしょうか」

男はぎこちなく笑い、二歩下がる。スマホにメッセージが届いたという口実を作り、慌てて元の席へ戻り、二度とこちらを見ようとしなかった。

雪穂は振り向くと、目の前一歩足らずの場所に桐谷淵が立っているのを見て一瞬呆然とした。

彼のコートの肩には乾ききっていない濃い水しぶき跡が残り、陳補佐が半歩後ろに従う。二人とも傘は差していない。

雪穂は俯き、小さく「ありがとうございます」と告げ、一拍間を置いて二文字を付け加えた。「…… 叔父様」

舌先に乗ったその呼び名には、自分自身でも説明のつかない渋みが漂っていた。

店内の他の客たちの視線がちらちらと二人に注がれるが、桐谷淵は避けることも気にすることもなく、自然に彼女の向かい側の席に腰を下ろす。まるで偶然の邂逅であるかのように。

雪穂は彼が着席してから自分の席に戻り、スマホを手に取り、穏やかな口調で事情を説明する。「知らない方です。タクシー待ちをしていたところ、話しかけられ、ずっと離れてくれませんでした」

桐谷淵はすぐに返答せず、視線を彼女の顔から外し窓外を眺め、やがて瞳を落とす。仕事を処理する時特有の無関心な面持ちで問う。「桐谷真は迎えに来ていないのか?」

「用事が入ったようです」雪穂は指を一瞬強く握り、すぐ緩める。「自分でタクシーを呼ぼうとしましたが捕まらず、ここで待機していただけです」

沈黙が店内に降り積もる。陳補佐は傍らに静かに立ち、介入もせず、去りもしない。

この静けさの中、桐谷淵は空気に漂う微かな甘い香りに気づく。香水ではなく、洗髪料の残り香のようなもので、ほとんど感知できないほど淡いのに、心のどこかを刺激する。

眉をわずかに動かしたが、すぐその動きを抑え、何事もなかったかのように装う。

「婚約の件は外部に一切話しておりません」雪穂はためらいつつ「桐谷家」という言葉を避けて続ける。「周囲に勘ぐられることはないでしょう」

口調は平坦だったが、桐谷淵は裏に隠された意味を読み取った。婚約をひっそりと進めるのは、誰かが大々的に公にしたくないからだ。

彼はその本心を突かず、ただ彼女を一瞥し起伏のない声で告げる。「陳補佐に送らせて帰りなさい」

「お手数をおかけするのは ——」

「手数ではない」彼女の言葉を遮る口調には拒絶の余地がないが、強引さはなく事実を述べるだけだ。「一人でここにいれば、また不要なトラブルに巻き込まれる」

雪穂は一秒黙り、それ以上辞退しなかった。

陳補佐が道端の車の準備に向かう。雪穂はカフェの入り口で鞄の紐を整え、出発しようとした時、扉が外から開かれた。

ベージュ色のニットセーターを着た女性が店内へ入り、一歩踏み込んだところで視線を巡らせ雪穂を捉える。思わず口が開きかかる。

「ゆき ——」

声は喉元で寸断された。

視線を横にずらし、戻ってきた陳補佐と、その傍らに佇む桐谷淵を確認すると表情をすぐに引き締め、柔らかく上品な声に切り替える。

「…… お姉ちゃん」

桐谷淵と陳補佐にそれぞれ軽く会釈し、小さく謝罪する。「失礼しました、お邪魔します」

陳補佐は彼女の顔を一秒眺め雪穂に問う。「宮本様、ご存じの方ですか?」

雪穂はすぐには口を開かず、約三秒の沈黙が流れる。

江安琪はこの静けさの中に立ち、微妙な面持ちだ。開くか閉まるか分からない扉の前に佇んでいるような心地で。

自ら話し出し、わざと従順さを漂わせた声で語る。「以前お姉ちゃんの家にしばらく住まわせていただいていました。父は私の継父で、元々私も宮本姓でした。後に実家に引き取られたのです」

陳補佐は追及せず、心の中にその情報を留める。数日前に銀色のタッセルイヤリングの持ち主調査を完了させており、目の前の顔が記録の名前と一致した。

桐谷真の婚約者と、イヤリング事件に関わる疑いのある女性。二人の関係は想像以上に複雑だ。

雪穂はやっと口を開く。声は平坦で起伏が一切ない。「もうずいぶん昔のことです。持ち出す必要はありません」

妹とも安琪とも呼ばず、過去の出来事が今に意味を持たないと軽く否定すると、足を進め陳補佐に従い、入り口に停まった車へ向かった。

江安琪はその場に立ち、彼女の背中を眺めたまま、声を上げなかった。

陳補佐が雪穂を車まで送り届ける。カフェの店内には桐谷淵だけが残された。

江安琪が近づき、雪穂が座っていた席の隣に立ち、腰を下ろさず慎重に言葉を選ぶ。「彼女は悪気があったわけではなく、二人の間に誤解があるだけです。今日の出来事をきっかけに、教授が彼女に悪いイメージを抱かないでください」

桐谷淵は顔を上げず、目の前のコップを脇へ押しやる。どうでもいい雑用をこなすような所作で「うん」と短く答える。

江安琪は一瞬間を置き、試すように問う。「今日こちらへいらっしゃったのは…… 彼女のためですか?」

「桐谷家の事だ」桐谷淵がやっと瞳を上げ、穏やかな視線を彼女に落とす。声は大きくないが、越えられない境界線が張り巡らされている。「部外者が気を回す必要はない」

江安琪は笑みを浮かべ、探りの心を収めて小さく告げる。「余計なことを申しました」

心の中で状況を整理する。宮本雪穂は桐谷真の婚約者、彼がここに来たのはただの偶然、あるいは家の立場上の必要な介入に過ぎない。

あの夜の出来事について、彼が勘ぐるはずはない。

そう自分を納得させ、胸の奥の不安を抑え込む。だが彼女は気づいていない、この安心感が、既に亀裂の入った前提の上に成り立っていることを。

アパートの室内には電気がついていない。

雪穂は廊下の人感センサーライトを適当に点灯させ、鞄を玄関の収納棚に置き室内履きに履き替える。足取り重く浴室へ向かい、熱いシャワーを浴びる。

シャワーを終え鏡の前に立つと、後首の鈍い痛みが今日の苛立ちや三時間待機した精神的消耗だけが原因ではないことに気づく。骨の隙間から染み出すような疲労に、明らかな熱感が混ざり、首元からこめかみへ広がっていく。

額に手を当て、次に手の甲を頬に押し当て二秒間感触を確かめる。熱い。

浴室の入り口にしばらく立ち、ナイトテーブルの引き出しから体温計を取り出し口に含み、ベッドに腰掛けて計測を待つ。

三十七度八分。

体温計を戻し布団を顎まで引き上げ、天井を眺めながら横になる。

アパートは静かで、時折外を車が通る音と自身の呼吸音だけが響く。

これからどうするか考える力も湧かず、ただ横になり体のあらゆる鈍痛を受け止め続ける。今日抑え込んできたすべての思いが、この静かな形であふれ出していくように。

スマホが振動した時、彼女はすでに朦朧としていた。

画面を確認すると発信元は桐谷真。電話に出て黙ったまま、彼の言葉を待つ。

「雪穂?」声には慎重さが混ざり、彼女の様子をうかがっている。「家に着いた?」

「うん」普段より低く、かすれた響きの声で答える。

「どうした?声の調子がおかしい」口調が心配そうに変わる。

雪穂は目を閉じ一秒沈黙し、小さく問う。「迎えに来ると言っていた運転手さん、どれほど待たせたの?」

電話の向こうが一瞬黙り、すぐ弁解めいた虚ろな声が届く。「時間の都合がつかなくなっただけだ。約束したことは必ず守る ——」

「約束したことは、一度も破ったことがない」雪穂は彼が何度も口にした言葉を繰り返す。

昔、今日より激しい雨が降る日、自分が発熱した際、何気なくワンタンが食べたいとつぶやいただけで、彼は雨の中四十分歩いて買いに行ってくれたことを覚えている。

その時初めて、この人が自分に本気なのだと感じた。

今思い返せば、あのワンタンから立ち昇る湯気は遠い昔の他人の物語のようで、暗いこのアパートとの間には測り知れない距離が横たわっている。

発熱していることを告げようとした瞬間、電話から別の女性の声が漏れ聞こえてくる。

彼の声ではない。

だらけた気だるい口調で、電話越しでも間近にいる安心感が漂う。「真、腰がまだ痛いの。何処へ行っちゃうの?彼女一人でタクシー呼べばいいじゃない。わざわざ来たんだから……」

雪穂はスマホのケースを指で強く握り締める。

その声を聞き覚えがあった。

電話の向こうに慌てた気配が生まれ、桐谷真が小声で何か囁き相手を黙らせようとする。

だが「腰が痛い」という一言はしっかりと耳に届き、頭の中で次々と光景が広がっていく。解説など必要ない、一目瞭然な情景だ。

彼女は黙ったまま長い沈黙を続ける。

耐え切れず桐谷真が呼びかける。「雪穂?」

スマホを耳から離し、通話を切る。

画面が暗転し、アパートに再び静けさが訪れる。指先は冷たく、後首の鈍痛が重くのしかかる。布団を顎までかけても体は寒さを覚える。

三時間待ち続けた理由が分かった。

発熱しながら待っていた三時間、彼は別の女性の腰の痛みを気遣っていたのだ。

涙も怒りも湧かない。ただ横になり続け、その言葉が頭の中を何度も巡るのを受け入れる。針のようにゆっくりと、この婚約に残された最後のわずかな温情を、一筋一筋剥ぎ取られていく。

電話が切れる音を聞いた桐谷真は画面を二秒間凝視し、すぐに再発信する。

呼び出し音が七回鳴り響いても出ない。喉が詰まるような苦しさに襲われる。さっきの雪穂の声は単なる機嫌の悪さではない、発熱した人特有の震えを伴うかすれ声だった。

その瞬間は気づかなかったが、今になって思い出すと気が気でない。車の向きを変えアクセルを踏み込む。

「ねえ、どこへ行くの ——」佐藤乔が助手席から身を乗り出し、腕に手をかける。「私の腰はまだ痛いのに、送ってくれないの?」

「降りろ」

「え?」

桐谷真は道端に車を停め、彼女側のドアを押し開く。

「降りろ」拒絶の余地のない声で繰り返す。「自分の運転手を呼べ」

佐藤乔は一瞬呆然とし、すぐ目に涙をためる。この状況でこみ上げる儚げな表情は、計算された攻撃性をはらんでいた。

桐谷真は前方を眺めたまま振り向かない。「佐藤乔、俺は今出かける。降りるかどうかはお前次第だ」

佐藤乔は彼の横顔を数秒間眺め、やっと鞄を手に取り縁石に足を下ろし車から降りる。

ドアが閉まる瞬間、地面の水たまりが跳ね彼女の靴の淵を濡らす。雨上がりの湿った夜道に車のテールライトが灯り、角を曲がって消えていく。

彼女はその場に立ち去行方を眺め、小さくつぶやいた。誰にも聞こえない声で。

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