第4章
病院を出た後、私は凛子のマンションに身を寄せた。
彼女は、望むならずっとここに住んでいいと言ってくれた。
数日後、高橋奏が凛子のマンションの玄関先に現れた。
「詩織はいるか?」
ドア越しに聞こえてくる彼の声には、焦りと怒りが混じっていた。
凛子が私を一瞥し、私が頷くと、彼女はドアを開けた。
中に飛び込んできた高橋奏の姿は、どこか見知らぬものだった——髪は乱れ、目は血走り、見るからに疲弊しきっている。だが、私の蒼白で弱々しい様子を目にした瞬間、彼の表情は凍りついた。
「そんなに俺が憎いのか?」
彼の声は震えていた。
「自分の体を傷つけてまで、俺たちの子供にチャンスをやろうとしないのか?」
私は静かに彼を見つめた。
「ええ、そうよ」
私の口調には何の波もなく、まるで天気の話でもしているかのようだった。
高橋奏の表情が歪む。
ふと、彼が私の妊娠を知った時の、あの興奮した様子を思い出した。「最高の父親になる」と彼は言った。あの頃、彼はどれほど甲斐甲斐しく私の世話をしてくれたことだろう——栄養満点の食事を学び、つわりを和らげる方法を調べ、毎晩一緒に散歩をしてくれた。
「詩織、一生お前を大切にする。お前と子供を守る」
と、彼はそう誓った。
だが、星野月が現れた途端、その一生の約束は終わりを告げた。
「離婚届はもう用意してあるわ。後で郵送する」
と私は冷静に告げた。
「そんなに俺との関係を切りたいのか? 三年の情を、そう簡単に断ち切れるのか?」
高橋奏の声が大きくなる。
「どうしてそんなに冷たくなったんだ? 昔の詩織は? あの優しくて思いやりのあったお前はどこへ行ったんだ?」
私は彼を見ながら、少し可笑しくなった。
「私はずっと私のままよ。ただ、あなたにはもう、その私を見る資格がなくなっただけ」
「他人のゴミ捨て場に捨てられたようなゴミだと知っていたら、あの時の私もあなたを拾ったりはしなかったでしょうね、高橋さん」
凛子が近づいてきて、ドアを開けて彼に退室を促した。
「出て行ってください。さもないと警察を呼びます」
高橋奏はその場に立ち尽くし、複雑で苦痛に満ちた表情を浮かべていた。
私は顔を背け、もう彼を見ようとはしなかった。
高橋奏が去った後、凛子は彼の出現が私をさらに深い苦痛に陥れるのではないかと心配した。彼女は元気な小雀のように私の周りを飛び回り、朝から甲斐甲斐しく動き回っていた。私が一人で静かにしていると、余計なことを考えてしまうとでも思ったのだろう。
彼女は味噌汁を作り、私の好きな苺大福を買い、さらには面白いという映画を何本か持ち出してきて、一緒に見ようと言った。
「詩織、大丈夫?」
彼女は恐る恐る尋ねた。
私は首を振り、ティーカップを持ち上げた。
「平気よ」
凛子は私の隣に座り、何か言いたげに口ごもった。彼女は深呼吸をすると、意を決したように口を開いた。
「実は、ずっと言えなかったことがあるの」
「何?」
「その……あの日、高橋奏に渡したギフトボックスの中に、私……赤ちゃんの写真も入れちゃったの」
彼女は緊張した面持ちで私を見た。
「彼も見るべきだと思って。だって……あの子は彼の子供でもあるから」
私は一瞬呆然としたが、すぐに落ち着いて頷いた。
「あの子の父親でもあるんだから、見せたところで何も問題ないわ」
凛子は私がこれほど平然としているとは思わなかったようで、驚いて目を見開いた。
「怒ってないの?」
「怒ってないわ。あなたが私のために仕返ししてくれたって分かってるから」
私は静かに言った。
「それに今は、彼と星野月の証拠を集めて、二人の不貞関係を証明することの方が重要よ。そうすれば離婚時の財産分与で有利になる」
凛子の目がみるみる潤み、彼女は私の手を握った。
「詩織、すごく変わったね。昔のあなたなら絶対にこんなに冷静じゃなかった。いつも愛情を信じる、高橋奏を信じるって言ってたのに」
涙ぐむ凛子の瞳を見つめ、私の心に温かいものが込み上げてきた。
私は彼女の手を握り返した。
「誰かの妻でいるより、自分の人生を自分でコントロールしたいの」
一週間後、私は用意しておいた離婚届を法律事務所経由で高橋奏に送付した。
しかし、数日経っても、署名された離婚届は返ってこなかった。
少し迷った末、私は高橋奏をLINEのブロックリストから削除し、直接電話をかけることにした。電話はほとんどすぐに繋がった。
「詩織」
受話器から高橋奏の声が聞こえ、彼はすぐに言い直した。
「……お前、やっと電話に出てくれたんだな」
「離婚届は受け取った?」
私は単刀直入に尋ねた。
電話の向こうは数秒間沈黙し、高橋奏の声が低くなった。
「本当に離婚するしかないのか? もう一度考え直せないか?」
「その質問、もう何度も聞いたわ。うんざりよ」
私は冷静に応じた。
再び沈黙。そして、高橋奏の冷笑が聞こえた。
「分かった」
彼の口調には悔しさが滲み、何かを抑えつけているようだった。
さらに一週間が過ぎても、高橋奏は離婚届に署名しなかった。
その日の朝、私のLINEに見知らぬ番号からメッセージが届いた。開いてみると、星野月だった。
「どうしてまだ奏君と離婚しないの?」
彼女のメッセージは直接的で鋭かった。
「彼はもう私と一緒になるって約束してくれたのに、何をぐずぐずしてるの?」
私は冷静に返信した。
「離婚届は送ったわ。彼がサインしないの」
「ありえない!」
星野月はほぼ即座に返してきた。
「奏君があなたと離婚したがらないわけがない」
続いて、彼女は長文の「告白文」を送りつけ、高橋奏がどれほど自分を愛しているかを私に証明しようとしてきた。彼女は大学時代の二人の恋愛、東京郊外での同棲生活、そして高橋奏が彼女のために撮影したという美しい写真集について詳細に綴っていた。
「もしあの時私たちが別れてなかったら、あなたと彼が結婚する番なんて回ってこなかったのよ?」
星野月のメッセージは傲慢さに満ちていた。
「奏君は私のこと、一度も忘れたことなんてなかったの。知ってた? あなたと一緒にいる時でさえ、彼は私たちの思い出をずっと大切に持ってたんだから」
これらのメッセージを見ても、私の心は異常なほど平穏だった。
もはや怒りも悲しみも感じず、ただ星野月がとても哀れに思えた。
なぜなら、高橋奏が星野月にしてやったロマンチックなことは、かつて私にもしてくれたことだったからだ。
「分かったわ。私が直接、晴空ビジネスビルに行って高橋奏と会って、離婚について話し合ってくる」
と私は返信した。
電話がほとんど即座に鳴り響いた。星野月の声が震えている。
「ダメ! 行っちゃダメ! また彼を誘惑する気なんでしょ!」
「私がサインさせに行かないと、彼自身はサインしようとしない。星野月、あなた、永遠に日陰の身でいたいわけ?」
「ありえない! 彼は絶対にサインするわ!」
「彼があなたのことをすごく愛してるって言ってたわよね?」
私は冷静に皮肉を言った。
「それなら、どうしてあなたを不倫相手のままにしておくのかしら?」
電話の向こうからツー、ツーという音が聞こえた。
星野月が電話を切ったのだ。
私は携帯電話を置き、安堵のため息をついた。
なんて哀れなんだろう。たった一人の男のために、自分をこんなみじめな姿にしてしまうなんて。
