第1章
畳の上に置いていた本が手から滑り落ち、半ば夢うつつだった私は玄関のチャイムの音で目を覚ました。
壁の時計に目をやると、すでに午前一時半を回っている。
誠は接待が多いから、この時間に帰ってくるのは珍しくない。けれど、彼は鍵を持っているから、チャイムを鳴らすはずがない。
ドアを開ける。
そこに立っていたのは、若い女の子に支えられた、泥酔状態の夫だった。
白石瑞希。夫の会社の後輩だ。
身体のラインを強調しすぎた窮屈そうなスーツを着て、宴席帰りとは思えないほど完璧な化粧をしている。
「涼子さん、夜分遅くに申し訳ありません」
彼女はそう言ったが、その眼差しには隠しきれない勝利の色が浮かんでいた。
「社長、少し飲みすぎてしまわれたみたいで」
夫の腕を受け止めると、ウィスキーと香水が混じり合った匂いが鼻をついた。
玄関の壁には私と誠のウェディングフォトが飾られており、瑞希さんの視線の下で皮肉な存在感を放っている。
「申し訳ないのですが、二日酔い覚ましのお茶を淹れていただけますか?」
彼女は甘ったるい声で、馴れ馴れしすぎる口調で言った。
「生姜は入れないでくださいね。社長、あの味がお嫌いなんです。いつも接待で飲みすぎた翌日は、これが必要になるんですよ」
いつも。彼女はその言葉を強調する時、目を微かにきらめかせた。
私は微笑んで頷いた。
この若い娘の、所有権を主張しようという考えはあまりにも見え透いていて、そして浅はかだ。
「送ってきてくれてありがとう。危ないといけないから、タクシーを呼びましょうか?」
私は優雅に彼女を見送り、そっとドアを閉めた。
彼女が去った後、私は眉をひそめて言った。
「もういいわよ。茶番は楽しい?」
ソファに崩れ落ちていた誠が、突然目を開けた。その目は驚くほど澄んでいる。
「最近、彼女がしつこくてな」
彼はこめかみをもみながら言った。
「離婚して結婚しろと迫ってくるんだ。仕方なく、冷たくあしらっている」
私は彼にぬるま湯の入ったグラスを渡し、向かいの畳に正座した。
二年。白石瑞希は、もう二年間も愛人の地位を保っている。
これは誠のいつものパターンを超えていた。これまで、彼の興味が特定の女性に六ヶ月以上続くことはなかったのだから。
どうやら今回は、彼にとっての例外らしい。
「誠さん、離婚しましょう」
私は心の中で何度も練習したその言葉を、静かに口にした。
彼は笑った。いつもの、相手を軽く見るような、あの笑みだ。
「涼子、また我がままを言っているのか?」
彼はグラスを置いた。
「とっくの昔に決めたじゃないか。表向きは完璧な夫婦を演じ、プライベートでは互いに干渉しない、と。たかが女一人で、何を拗ねているんだ」
私は一番下の引き出しから、一つのファイルを取り出した。
十年前、私が誠に嫁いだ時、父が持たせてくれた持参金の一つが、一族が経営する企業の株式二〇パーセントだった。当時、父がなぜそれにこだわったのか分からなかったが、今なら分かる。
「本気です」
私は彼の前のテーブルにファイルを置いた。
「私にも、外に好きな人ができたの」
誠の表情が、余裕のあるものから険しいものへと変わった。
彼はファイルを開き、離婚協議書を注意深く読み進め、財産分与の項目で長く目を留めた。
「東京と軽井沢の不動産はこのように分けましょう」
私は書類の条項を指差しながら言った。
「一族の企業の株式は、元々の二〇パーセントを保持するだけで結構です。会社の運営に影響はありません。もちろん、あなたが買い取りたいというのであれば、それでも構いませんが」
誠はファイルを置き、その表情は見慣れないものになっていた。
「涼子、本気で言っているのか?」
彼の声は低かった。
彼が誤解しているのは分かっていた。
私が白石瑞希のせいで離婚を切り出したと、そう思っているのだ。
三年前の会社の忘年会を思い出す。彼が秘書と廊下で口づけを交わしているのを見て、私が人前で取り乱してしまった、あの時のことを。
あれが、彼の浮気で私が感情的に崩壊した最後の時だった。
あの日以来、私は心の中に壁を築くことを覚えた。
私は顔を上げて彼と視線を合わせ、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「誤解よ。今回は瑞希さんのせいじゃないの。彼が、私の残りの人生を共に過ごしたいと、真剣に考えてくれているから」
「海外で、プロポーズされたの」
