第2章
岩崎誠の顔に、今まで見たことのない表情が浮かんだ。
常に完璧な微笑みを浮かべていたその顔が、醜く歪んでいく。
「涼子、言ったはずだ。白石さんのことで君の生活に影響はない」
彼の声は低く、抑制が効いていた。
「それに、俺たちの結婚生活はこれまでずっと上手くやってきたじゃないか?」
私は静かに首を振り、指で離婚届の条項をなぞった。
「慰謝料として軽井沢の別荘を差し上げます。それでよろしいでしょう」
誠の眼差しが鋭くなる。彼は不意に問いかけた。
「この前の、会社の下で君を待っていたあの若い男か?」
私は否定せず、頷いた。
「池端光です。一度お会いになっていますわ」
誠はしばし沈黙した。確かに、彼はその時何も言わなかった。
なにしろ、このようなオープンマリッジを提案したのは彼自身なのだから。
会社のイメージや社会的地位に影響がない限り、私たちはそれぞれ自分の空間と自由を持つ。
私の思考は、先週の鎌倉の海岸でのあの夕暮れへと自然に飛んだ。海辺の鳥の群れが夕陽に照らされて細かな影を落とし、池端光はそこで私を待っていた。手には小さな箱を持っている。
「これは、僕が奨学金で買ったものです」
彼は少し照れくさそうに、桜の形をした小さな指輪を差し出した。
「高価なものじゃないんですけど……でも、これをあなたに渡したくて」
私はその指輪を受け取った。
誠が贈ってくれた贅沢品とは違う、この小さな桜の指輪は、真摯な感情を宿していた。
とても幼く、そして、とても誠実だった。
「岩崎さん、彼と離婚してください」
池端光の声は、波の音の中でもひときわ固く響いた。
その瞬間、私は彼の純粋な愛情と、世間の目を気にしない勇気に心を動かされた。
私はもう二十九歳。岩崎誠と九年もこうして絡み合ってきたけれど、こんな生活が本当に私の望むものなのだろうか。
愛し合っていた頃から、互いを敬うだけの関係へ、そして今では赤の他人同然。すべては静かに変化していった。
ただ、彼の誠実さと溢れんばかりの愛情が、その想いに応えたいと思わせたのだ。
「ええ」
私は言った。
現実に引き戻され、私は誠に向かって説明した。
「ええ、戻ってきてから少し心が揺らいだのは認めます。離婚は私たちにとって、かなり面倒なことですから」
私たち二人はここ数年、離婚は口にしないという暗黙の了解を保ってきた。
「でも、彼に約束してしまった以上、面倒でも仕方ありませんわ。あなたも理解してくださるでしょう? あなたの白石さんも、私たちが離婚する日を心待ちにしているはずですもの」
「それで? 君はその池端とやらが白石さんと何か違うとでも言うのか?」
誠は冷笑を浮かべて尋ねた。
「違いますわ。彼は私に対して本気です。私には分かります」
私は軽く微笑んで答えた。
岩崎誠の顔色が一層険しくなる。
「分かるだと? 笑わせるな。まさか本気であいつを好きになったんじゃないだろうな」
「池端君は、他の人とは違います」
私は、彼がかつて白石さんは他の人とは違うと言った言葉を、静かに引用した。
誠の表情が陰っていくのを見て、私の心にも密かな快感が混じった。
「俺たちがいざ離婚となれば、君の損失がどれほど大きいか分かっているのか」
誠の声には嘲りと、歯ぎしりをするような響きがあった。
「池端が君に何を与えられる? あいつの一か月の研究補助金じゃ、君の服のボタン一つも買えやしないぞ」
物質的に、岩崎誠が私に不自由をさせたことは確かになかった。
私は手にした池端光からの桜の指輪をそっと撫でながら、平然と言った。
「もう、そういった外面的なものは気にしていませんの」
かつて岩崎誠が贈ってくれたネックレスを思い出す。私たちも、かつてはとても円満な夫婦だった。
ただ、その後、すべてが少しずつ変わっていった。
「誠さん、離婚しましょう」
私は再び、毅然とした、けれど穏やかな口調で言った。
その言葉が、何かの引き金を引いたかのようだった。岩崎誠は突如として冷静さを失い、勢いよく立ち上がると、目の前のテーブルを蹴り倒した。
茶碗が床に砕け散り、お茶が離婚届の上に飛び散る。
彼は大股で、私の目の前まで来ると、指で私の首を締め上げた。ほとんど窒息しそうなほどの力。その目には、これまで一度も見せたことのない獰猛な光が宿り、ほとんど咆哮するように問い詰めた。
「涼子、誰がお前に他の男に本気になることを許したんだッ!」
