第2章

「立夏ホテルだ。お前が手配した女は悪くなかった。今月のボーナスは倍にしてやる」

「社長、何をおっしゃっているんですか? 私が手配した女性は社長に会えず、先ほど帰らせましたが」

 それを聞き、碧井天川は眉をひそめた。

「さっきのウェディングドレスの女は、お前が手配したんじゃないのか?」

「ウェディングドレスの女? 社長、一体何の話を……」

 碧井天川は電話を切った。あの女が小林の手配でないなら、あれは事故だったのか?

 ……

「えっ、政略結婚?」

 疲れた体を引きずって帰宅した藍原華月を待っていたのは、嫁げという知らせだった。

「お父さん、藍原家は破産寸前なの? 娘を政略結婚させなきゃ助からないの?」

 藍原夫人は心を痛めた表情で言った。

「何を言ってるの。お父さんだって碧井家からの縁談を知って、ずっと断る方法を考えていたのよ。でも……」

 藍原夫人は無力感に溜息をついた。碧井家からの縁談を、誰が断れるというのか?

 誰が?

 碧井家だ!

 碧井家、全国最大の財閥一族。

 国の経済の命脈を握り、その権勢は天をも覆うほどだ。

 藍原華月はソファに崩れ落ち、呆然と母を見つめた。

「お母さん、本当にあの碧井家なの?」

 藍原夫人は心配そうに娘を見つめ、覚悟を決めたように言った。

「碧井家は明日、縁談の詳細を話し合うために来るそうよ。でも安心して、あなたが嫁ぎたくないなら、お母さんは絶対に同意しないわ!」

「そうよ、あなたは私とお父さんが手塩にかけて育てた宝物なのよ。好きでもない人に無理やり嫁がせるなんてできないわ。碧井家がどれほど権勢を誇ろうと、今は法治国家よ。藍原家に何ができるっていうの!」

 自分のために必死になる両親を見て、藍原華月の胸が締め付けられた。

 政略結婚なんてしたくない。だが藍原家の事業は両親の一生の心血が注がれたものだ。碧井家を敵に回すわけにはいかない。

 碧井家は表向きは実業家だが、裏ではグレーな事業も少なくない。碧井家が足をひと踏みすれば、国全体が震え上がる。彼らを怒らせれば、藍原家を潰すなど蟻をひねり潰すように簡単なことだ。

 藍原華月は呆然と部屋に戻った。碧井家との縁談に頭が痛くなる。

 碧井家の権勢なら、縁談を望む者などいくらでもいるはずだ。なぜよりによって彼女が選ばれたのか?

 どうすれば碧井家を怒らせずに、縁談を取り消せるだろうか……。

 碧井荘園。

 碧井天川はソファに座る碧井老人を冷ややかに見やり、エレベーターの方へ歩き出した。

 碧井老人はその背中を一瞥し、淡々と言った。

「明日、藍原家に結納へ行け」

 碧井天川は足を止め、振り返って父を見た。

「結納?」

 碧井老人は手の中の数珠を弄びながら言った。

「結納品は用意してある。明日は形式的に顔を出せばいい。挙式は来月の六日だ」

 碧井天川は引き返し、ソファに座ると嘲るような笑みを浮かべた。

「なんだ、後妻か妾でも迎える気ですか? その歳で体が持ちますか?」

「碧井天川!」

 碧井老人は顔を黒くし、怒りを押し殺した目で睨んだ。

「お前の結婚だ!」

 碧井天川の表情も冷え切った。彼はきっぱりと言い放つ。

「俺は結婚しないと言ったはずだ!」

「結婚の件はお前の意志では決められん。この結婚をしなければ、お前は一生あの人に会えんぞ!」

 碧井天川は顔面蒼白になり、拳を握りしめたが、最後には力を抜いた。

「……分かった」

 翌朝早く、碧井天川は約束通り藍原家を訪れた。

 藍原華月は昨夜、何度も逃げ出そうと考えたが、結局留まった。

 碧井家の権力を考えれば、地の果てまで逃げても連れ戻されるだろう。

 逃げられず、拒否もできないなら、碧井家の方から破談にしてもらうしかない。

 藍原華月は昨夜急いで用意した書類を手に、足早に階段を降りた。

 しかし、リビングの上座に座る男を見た瞬間、彼女は機械のようにその場で凍りついた。頭の中が真っ白になる。

 同時に、碧井天川の視線も彼女に落ちた。その顔をはっきりと認めた瞬間、細長い冷徹な瞳がわずかに細められ、威圧的な寒光を放った。

 藍原華月の思考が停止する。なぜ彼がここに? ドレス代の弁償に来たのか、それともカードを取り返しに来たのか?

 藍原父は藍原華月を引っ張り、碧井天川の前に連れて行くと笑顔で言った。

「碧井様、これが娘の華月です」

 碧井天川は目を細め、見覚えのある顔を見つめ、瞳の奥を冷たく沈ませた。

 碧井様?

 彼が碧井天川!

 藍原華月はようやく理解した。自分を抱いた男が、まさか碧井家の御曹司だったとは!

「君が藍原華月か?」

 碧井天川は藍原華月を上から下まで品定めした。どうやらあの夜は彼女の周到な計画だったらしい。目的は碧井家に嫁ぐことか!

 藍原家の人間め、よくも計算してくれたな!

 碧井天川の怒りを感じ取り、藍原華月は内心慌てた。去り際の彼への態度を考えれば、彼は彼女を殺したいほど憎んでいるはずだ。この縁談に同意するはずがない。

 藍原父は碧井天川の怒った顔を見て、華月が気に入らなかったのだと思い、先に口を開いた。

「華月のやつは幼い頃から甘やかして育てたもので、わがままで勝手気ままなんです。とても碧井家には釣り合いません。ですので、この縁談は……」

 碧井天川は藍原父に最後まで言わせなかった。指をパチンと鳴らすと、十数人のボディガードが整然と入ってくる。手には高価な宝石や骨董品、そして藍原家がずっと欲しがっていたが取れなかった契約書がいくつか抱えられていた。

「来月の六日が挙式だ。その時、結婚式は予定通り行う」

 藍原家の面々が我に返る間もなく、碧井天川はすでに立ち上がり大股で去っていった。最初から最後まで、無駄口は一切なかった。

 藍原母は困り顔で言った。

「どうしましょう? 見たところ、碧井家は本気で華月を嫁に欲しいようね」

 藍原華月は昨夜急遽プリントアウトした『診断書』を握りしめ、走るように追いかけた。

「碧井天川!」

 車に乗り込もうとする長身の背中に声をかける。

 男が振り返る。仕立ての良い黒いスーツが広い肩と引き締まった腰を強調し、眉間にはいつもの冷たさが漂っていた。

「何か用か?」

 藍原華月は深呼吸をし、その検査報告書を差し出した。指先は力が入って白くなっている。

「これを見て」

「医者が言うには、私の私生活が乱れすぎていて、将来……子供が望めないかもしれないって」

 藍原華月はできるだけ声を落ち着かせ、わざとらしいほどの無関心さを装ったが、激しい鼓動だけは自分でも分かっていた。

 一昨日寝たばかりで、今さら私生活が乱れていると言って、彼が信じるだろうか?

「それで?」

 碧井天川は問い返した。眼底には驚きの色はなく、むしろ嘲るような冷笑が浮かんでいる。

「碧井家のような財閥なら、跡継ぎが必要でしょう。子供が産めない私は碧井家に相応しくないわ」

 藍原華月は顔を上げて彼の視線を受け止めた。

「だから、婚約は破棄しましょう」

「相応しいかどうかは、君が決めることじゃない」

 碧井天川が一歩踏み出し、その長身が瞬時に彼女を覆った。強烈なオーラに、藍原華月は思わず半歩後ずさる。

 彼は手を上げ、指先で彼女の顎を軽く摘んだ。力は強くないが、拒絶を許さない強引さがあった。

「あの晩、俺のベッドに潜り込んだのは、碧井家に嫁ぐためだったんだろう? 目的を達した今、じらすような駆け引きはやめてもらおうか!」

前のチャプター
次のチャプター