第5章

 藍原華月は、体の横で握りしめていた手をそっと開いた。こうすれば、碧井天川にさらに嫌われることは分かっている。

 だが、やらなければならない。

 この結婚は彼女一人の問題ではなく、藍原家の存亡に関わることだ。碧井家に侮られるわけにはいかない。

 碧井天川は車のボンネットに寄りかかっていた。薄暗い街灯が彼を柔らかく照らし出し、指先のタバコが燃え尽きる。彼は吸い殻を踏み消し、朝倉紗雨に視線を走らせた。

「母さんの情報を教えたいと言ったな?」

 彼は口を開いた。声には婚宴の酒気が残っている。

「どんな情報だ?」

 朝倉紗雨は顔を上げた。目は赤く腫れ、泣いていたのは明らかだ。

「天川……本当に彼女と結婚したの?」

 彼女は質問には答えず、泣き声混じりに言った。

「一生結婚しないって言ってたじゃない……」

 碧井天川は眉をひそめ、苛立ちを隠さずに言った。

「母さんの情報を聞いているんだ」

「私……」

 朝倉紗雨の視線が泳いだ。罪悪感から碧井天川と目を合わせられない。

「ごめんなさい、嘘をついたの。あまりにも辛くて、あなたが私を相手にしてくれないのが怖くて、おばさまの情報があるなんて嘘をついてしまったの」

「天川、どうして私じゃないの?」

 長年、彼の隣に並ぶことができた唯一の女は自分だった。彼が結婚するなら自分とだと思っていた。それなのになぜ他の女なのか。悔しくてたまらない。

「もういい」

 碧井天川は彼女を遮り、突き放した。苛立ちが溢れ出ている。

「朝倉紗雨、俺が嘘つきを一番嫌っていることは知っているはずだ!」

 彼が背を向けて去ろうとすると、朝倉紗雨は駆け寄り、後ろから彼の腰に抱きついた。

「天川、わざとじゃないの。ただあなたを愛しすぎただけなの。怒らないで」

「天川様」

 いつの間にか、大旦那様の側近である執事の上原が背後に現れていた。彼の後ろには黒服のボディガードが二列に並んでいる。

 碧井天川は眉を深く寄せ、顔を曇らせた。

「何をしに来た?」

 上原の声は慇懃無礼で、淡々と告げた。

「本日は天川様のご成婚の日です。大旦那様がお呼びです」

 あの女、まさか親父を使って圧力をかけてくるとは。

 思い通りにさせてたまるか!

「他に用事がある。彼女には先に寝るよう伝えろ」

 そう言って背を向けようとする。

「天川様」

 上原が彼の前に立ちはだかり、声を低くした。

「大旦那様は、縛ってでも連れ戻せと仰せです」

 上原の言葉と同時に、背後の十数人のボディガードが一歩前に出て、碧井天川の行く手を阻んだ。

 明らかに準備万端だ。

 碧井天川は目を細め、冷ややかに言った。

「こいつらだけで俺を止められると思うか?」

「天川様の腕前なら、この者たちでは止められないでしょう」

 上原は一呼吸置き、続けた。

「大旦那様はこうも仰っています。今夜お戻りにならなければ、今後二度と奥様には会わせないと」

 碧井天川は両手を強く握りしめた。眼底に怒りが渦巻く。

「俺を脅すのか?」

 上原はわずかに身をかがめ、恭しく言った。

「天川様、私も命令に従っているだけです」

 彼は碧井天川を一瞥し、重々しく忠告した。

「天川様、大旦那様のご性格はよくご存じでしょう。今夜お戻りにならなければ、本当に奥様には会えなくなります」

「あの野郎!」

 碧井天川は低く唸り、拳を固く握りしめすぎて関節が白くなった。

 上原はただ静かに頭を下げ、碧井天川のために車のドアを開けた。

 結局、碧井天川は握りしめた拳を解いた。妥協したのだ。

 ……

 碧井天川は本邸に戻ると、そのまま碧井老人の書斎に押し入った。

 ドアが開く大きな音がしたが、老人は瞼すら上げなかった。

「母さんはどこだ?」

 碧井天川は数歩で机の前に詰め寄り、「バンッ」と手を机についた。茶碗が震える。

「あの時のことは一体どうなっているんだ? 母さんをどこへ隠した?」

 スタンドの光が彼の顔に陰影を落とす。目の充血と怒りが混じり合い、まるで怒れる獣のようだ。

 老人はようやく顔を上げた。眼鏡の奥の瞳は深い水のように静かだ。

「新妻を放り出して、他の女とデートか。碧井天川、今日の式で恥をかいた上に、まだ足りんのか?」

 碧井天川の声が荒くなる。

「結婚しろと言うからした。今度はあんたが約束を守る番だ。母さんに会わせろ」

「その件は後で話す」

 老人の口調は淡々としていて感情が読めない。

「藍原華月が部屋で待っているぞ」

「母さんがどこにいて、どうしているのか知りたいんだ!」

 碧井天川の声は低くかすれ、全身から殺気を放っていた。

 碧井老人は眉をひそめ、瞳にようやく波紋が広がった。

 この息子には本当に頭を悩ませられる。だが皮肉なことに、性格は誰よりも自分に似ているのだ。

「知るべき時が来れば、自然と知ることになる」

 碧井天川の目から怒りの炎が噴き出しそうだった。

「二度と母さんを使って俺を操ろうとするな!」

 話さないなら、自分で調べるまでだ!

 碧井老人は立ち上がったが、怒りで体がふらついた。

「碧井天川、私はお前の父親だ、敵ではない。母親のことは、その時が来れば分かる」

 碧井天川は拳を固く握りしめ、胸の中の怒りが暴れ回っていた。殺したいほどの怒りがあるのに、発散する出口が見つからない。

 老人は眼鏡をかけ直し、波一つ立たない静かな声で言った。

「藍原華月をあまり待たせるな」

 バンッという大きな音。

 藍原華月はその音に驚いた。来訪者を確認する間もなく、首を大きな手に締め上げられる。

 碧井天川の漆黒の瞳は凍てつく星のようで、顔全体に陰鬱さが漂っていた。

「誰の許しを得て、何度も親父を使って俺に圧力をかけた!」

 強烈な窒息感が襲い、藍原華月の顔は赤くなった。だが彼女は強気に彼の目を見返した。

「今日は私たちの結婚の日よ。あなたはここにいなきゃいけないの」

「散々御託を並べて、結局は俺に抱かれたいだけだろう。欲求不満なら満たしてやるよ、碧井夫人――」

 碧井天川は「碧井夫人」という言葉を強調し、次の瞬間、藍原華月に口を挟む隙も与えず、乱暴に彼女を懐に引き寄せた。

 彼のキスは拒絶を許さない強引さで、そのまま下へと移り、彼女の服を引き裂いた。豊かな胸が露わになると、瞳の奥の暗い色が走り、欲望が一気に膨れ上がった。

「碧井天川、離して!」

 藍原華月は彼を突き飛ばそうとしたが、碧井天川に片手で制され、体を裏返されてベッドの縁に這いつくばらされた。次の瞬間、秘所を狙い、激しく突き入れられた。

 彼が入ってきた瞬間、引き裂かれるような痛みが全身を駆け巡り、涙が勝手に溢れ出した。

 彼には微塵の憐れみもなく、ただ乱暴に出入りを繰り返すだけだ。

「碧井夫人、気持ちいいか?」

 彼女の嗚咽混じりの喘ぎ声を聞き、碧井天川の腰の動きはさらに激しくなった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。彼はようやく身を引き、シャツを整えた。その動作は手際よく冷淡で、まるで先ほど理性を失っていたのが彼ではないかのようだ。

 藍原華月は乱れたシーツの上で体を丸め、全身を震わせていた。体には彼の乱暴な痕跡が残っている。

「碧井夫人は満足したか? 足りないなら、続けてもいいが」

 藍原華月は悔しさに歯を食いしばった。

「碧井天川、人でなし!」

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