第1章 最も馴染みのある見知らぬ人
深夜十一点四十三分、何かが擦れるような音で目が覚めた。
ぼんやりとした意識の中、マットレスが僅かに沈み、誰かがそっとベッドに上がってくるのを感じる。私は無意識に奥へと身を寄せ、その人のためのスペースを空けた。
「あなた?」眠気の残る声で、私はそっと呼びかけた。「今日は早かったのね」
返事はない。
温かい手が私の腰をそっと撫で、熱っぽい吐息が首筋にかかる。私は目を閉じたまま、その慣れ親しんだ体温が寄り添ってくるのを感じていた。この感触……確かに夫のものだ。少し硬くなった指の質感も、彼特有のミントのボディソープの香りも、体温の熱さまで、何もかもが同じだった。
でも……。
「ねえ、今日はどうして何も喋らないの?」私は寝返りを打ち、暗闇の中で彼の顔を見ようと試みた。
カーテンの隙間から差し込む月光が、見慣れた輪郭を映し出す。確かに夫の雄太だ。私が三年間見続けてきた顔。でも……彼の眼差しがどこかおかしい。
「美雪」彼が口を開いた。その声は低く、私の心臓を跳ねさせる。
待って。
この声……声色は同じなのに、口調が全く違う。雄太はいつも穏やかで丁寧な話し方をする。冷戦状態にあったこの頃でさえ、こんな命令するような口調で私の名前を呼んだことは一度もなかった。
「あなた……どうしたの?」私は無意識に後ずさった。
彼は答えず、突然私の肩を押さえつけ、覆いかぶさってきた。
「待って!」私は驚いて声を上げ、両手で彼の胸を押し返した。「あなた、何してるのっ?!」
彼の動きには、まるで絶望しているかのような執拗さが宿っていた。体つきは普段と変わらないのに、そのなりふり構わない力強さに、私は振りほどくことができない。
こんな乱暴なやり方……普段の優しい雄太とはまるで別人だ。
「離して!」私はもがき始めた。氷水のような恐怖が心に湧き上がる。
しかし、大声で助けを呼ぼうとした、まさにその時。その手が私の頬をそっと撫でた。
その仕草は……。
私は全身が強張った。
それは、雄太がプロポーズしてくれた時の手つきだった。三年前のあの雨の夜、彼はこうして私の顔を撫で、目に涙を浮かべ、震える声で私と結婚したいと言ってくれたのだ。
「あなた……」私の声は震えていた。「一体、誰なの?」
月明かりの下、彼の口元が苦々しい笑みを浮かべるのが見えた。
「美雪」彼の指が私の唇をなぞる。その声には、私が今まで一度も聞いたことのない絶望が滲んでいた。「本当に、俺が分からないのか?」





