第2章 ずれた記憶
その言葉は、針のように私の心臓を突き刺した。
私は目を見開き、月明かりの下で改めてあの男の顔を確認する。確かに雄太の顔だ。顔の細部の一つ一つが、私の記憶の中の彼と寸分違わない。でも……。
「もちろん、あなたのことは分かるわ……」私の声は震えていた。「でも、今日のあなたは変よ」
雄太は不意に笑った。その笑い声には、背筋が凍るような苦涩さが滲んでいた。
「変だって?」雄太が指でそっと私の頬を撫でる。「美雪、俺こそが本物の田中雄太だ。お前の、夫だ」
「どういう意味?」心臓の鼓動が速くなる。
「今、お前と一緒に暮らしているあの男は……」雄太の目に一瞬、怒りの色がよぎった。「偽物だ」
私は全身が凍り付いた。あまりにも荒唐無稽な言葉。けれど、彼の口調は真剣そのもので、揺るぎない確信に満ちていた。
「何を馬鹿なこと言ってるの?」私は彼を突き放そうとした。「雄太、仕事のプレッシャーが大きすぎるんじゃない?」
「お前の左肩に小さな傷跡があることを、俺は知っている」彼は不意に、低く、確信に満ちた声で言った。「五歳の時、ガラスで切ってできた傷だ」
私の血が、瞬時に凝固した。
その傷は小さく、普段は服に隠れていて、ごく親しい人間しか知らないはずだ。
「それに」と彼は続けた。「雷が鳴るたび、お前は無意識に枕を抱きしめて、頭を布団に埋める。七歳の時に雷の音で泣かされて以来の、子供の頃からの癖だ」
私の手が震え始める。これらのディテールは……。
「そんな……そんなの、何の証明にもならないわ……」自分の声が、自分でも信じられないほど弱々しい。「あなたは雄太なんだから、知っていて当然じゃない……」
「じゃあ」彼の眼差しが鋭くなる。「どうしてあいつが半年前、突然タバコをやめたのか説明できるか?」
半年前?
その言葉が、稲妻のように私を打ち抜いた。
思考が急速に回転し、一つ一つの記憶が脳裏に蘇る。
待って……確かに、半年前、雄太は突然タバコを吸わなくなった。私はその時、健康を思ってのことだと喜んでいた。でも今思えば、その変化はあまりに唐突で、まるで別人にでもなったかのようだった。
「タバコをやめるのが、何かおかしいの?」私は虚勢を張ったが、声はすでに震え始めていた。
「俺はずっとヘビースモーカーだった!」彼の声が突如として高ぶり、怒りが潮のように押し寄せてくる。「美雪、俺はタバコをやめようなんて一度も思ったことはない!あの偽物はタバコを吸わないから、突然『タバコをやめた』んだ!美雪、もっとよく考えてみろ」
心臓の鼓動が、さらに速くなる。
タバコをやめたことだけじゃない……他にも変化があった!
「野球……」私はためらいがちに口にした。「突然、野球を見なくなった……」
以前の雄太は野球狂で、大事な試合は一試合たりとも見逃さず、徹夜することさえあった。けれど半年前から、野球に全く興味を失ってしまった。私が尋ねると、いつも仕事が忙しいと曖昧に誤魔化すだけだった。
「それと、あのラーメン屋……」私の声はどんどん小さくなる。「一番好きだったあのお店、突然行きたくないって言い出して、パスタが好きになった……」
あの小さなラーメン屋は、私たちがデートでよく行った場所だった。雄太はいつも、あそこの豚骨ラーメンが世界一だと豪語していた。なのに半年前から、彼は気分を変えたいと言い出し、様々な洋食の店に私を連れて行くようになった。
私はその時、私たちの関係に新鮮さを加えたいのだろうと思っていた……。
「いや、ありえない……」私は首を振るが、心の中の防御線が少しずつ崩れていく。
「美雪、君は俺の光だ」
目の前の男の口からその言葉が紡がれた瞬間、私の世界は時を止めた。
それは三年前、プロポーズの時に雄太が私に言った言葉。誰にも話したことのない、二人だけの言葉。結婚してからも、彼がそれを繰り返すことは滅多になかった。
「そ……そんな……」私の声は震え始める。「もしあなたが本物の雄太なら、家にいるあの人は誰なの?」
彼は答えず、ゆっくりと右手を伸ばし、袖をまくり上げた。
月光の下、彼の手首にある古傷がはっきりと見えた。長さ二センチほどの、すでに淡い白色に変わった傷跡。
「これは八歳の時、木から落ちてできた傷だ」彼の声には、微かな震えが混じっていた。「美雪、覚えているか? 俺たちが初めて会った時、お前はこの傷の由来を尋ねたんだ」
涙で視界が滲み始める。
確かに、覚えている。大学で初めて会った時、私は彼の手首の傷に気づいて、心配して尋ねた。彼は当時、笑いながらこの子供の頃の小さな事故について話してくれたのだ。
でも……今、家にいる「雄太」にも、この傷跡はある!
「違う……」私は必死に思考を巡らせる。「家にいる雄太にも、この傷跡は……」
「確かか?」彼の眼差しが鋭さを増す。「お前は最近、いつあいつの右手首をちゃんと見た?」
思い出そうとしても、全く思い出せないことに気づく。
「いっ……一体、何を言いたいの?」私の声は、もはや嗚咽に近かった。
「俺が言いたいのは」彼のてが私の顔を優しく撫でる。その瞳は苦痛に満ちていた。「お前は半年もの間、ずっと騙されていたということだ。お前と一緒に暮らしているあの男は、断じて俺じゃない」





