第4章
瀬川葵視点
家に帰ると、私はまっすぐ裏庭のプールへ向かった。
頭を冷やして、今日あったこと全部を整理する必要があった。木村コーチからの誘い、黒木悠奏の奇妙な態度の変化、そしてどうしても拭えない、あの不可解な緊張感。
でも、プールに着くと、そこには先客がいた。
黒木悠奏がフリースタイルで泳いでいた。広い肩が水面に見事な弧を描き、ひとかきごとに背中の筋肉の力が示される。沈みゆく夕陽を浴びて、引き締まった胸を水滴が滑り落ち、肌が黄金の光にきらめいていた。
もう、いつの間にこんなに……魅力的になったの?
一瞬帰ろうかと思ったけど、やめた――ここは私の家だ!なんで私が逃げなきゃいけないの?
ビキニに着替えて、プールサイドへ歩いていく。
「泳ぐの上手いのね」
私は素直に認めた。
彼は動きを止め、こちらを振り返った。私のビキニ姿を見るなり、彼の表情が変わる。そのあからさまな感嘆の視線に、顔が熱くなるのを感じた。
「……どうも」
彼の声はかすれていた。
「君も……着替えたんだな」
当たり前でしょ。
「勝負しない?」
私は挑発した。
「4ラップで、どっちが速いか決めよう」
「本気か?俺、小さい頃から泳いでるんだけど」
「本気よ」
私はプールに飛び込んだ。
「バスケだけが取り柄じゃないから」
「わかった」
彼は私のところまで泳いできた。
「負けた方は……」
「何?」
彼は少し考えてから言った。
「負けた方は、相手がすごいって認める」
「それでいいわ」
私たちはプールサイドに並んで立ち、スタートの準備をした。
「三、二、一、スタート!」
二人同時に飛び込んだ。
黒木悠奏は確かに速かったけど、T市の市民プールで覚えた私の泳ぎはもっと実戦的で効率的だった。最初の2ラップは互角、3ラップ目で私が前に出始めた。
そして、最終ラップで、悲劇は起きた。
黒木悠奏が突然動きを止め、苦痛に顔を歪めてふくらはぎを押さえた。
「あっ!」
彼が叫んだ。
「足、つった!」
私はすぐに彼の方へ泳いでいった。こういう時、競争心とか憎しみなんて考えていられない――人命がかかっている。
「動かないで!」
彼のそばに着く。
「落ち着いて!」
片腕を彼の腰に回して引き寄せ、もう片方の手は水中で痙攣しているふくらはぎをマッサージする。水中では、私たちの体は完全に密着していた――私の胸が彼の硬い胴体に押し付けられ、速い心臓の鼓動まで伝わってくる。
「大丈夫?」
私は心配して尋ねた。
彼は私を見つめた。その青い瞳には、私の息を止まらせる何かが宿っていた。
「思ったより、ずっといい」
彼の声は優しかった。
私たちは水中で抱き合ったまま、顔を近づけた。空気が急に濃密になり、名状しがたい緊張感で満たされていく。
彼の手が優しく私の腰を撫で、心臓が張り裂けそうなくらいに高鳴った。
私たちの距離が、どんどん縮まって……。
「二人とも、ずいぶん仲がいいじゃないか!」
黒木侑李さんとお母さんの声が突然響き、親密な瞬間を打ち破った。
私たちは弾かれたように離れ、熟したトマトのように顔を赤らめた。
「父さん!」
黒木悠奏が慌てて言った。
「違うんだ、これは!」
「ぜんぜん違います!」
私もすぐに否定した。
「そんなんじゃないです!」
黒木侑李さんとお母さんは顔を見合わせ、二人とも意味ありげな笑みを浮かべていた。
「わかっている、わかっているとも」
黒木侑李さんが言った。
「飲み物を持ってきただけだよ」
「そうよ」
お母さんも目を輝かせて付け加えた。
「なんだか、すごく……情熱的に泳いでいたみたいね」
私はプールから這い上がり、タオルを掴むと家の中へ駆け込んだ。
背後から黒木悠奏の声が聞こえる。
「待て、瀬川葵――」
でも私はもう家の中だった。心臓が雷のように鳴り響いている。
くそっ。
あの瞬間、私はもう少しで……。
いや、そんなふうに考えちゃダメだ。彼は黒木悠奏、私の敵。私を辱めようとした金持ちのお坊ちゃん。
でも、どうして彼が私を見つめると、世界が止まったように感じたんだろう?
どうして彼の手が肌に触れただけで、電気が走ったみたいに感じたんだろう?
混乱しすぎる。
たぶん、あのプールには近づかない方がいい。
黒木悠奏から、離れた方がいい。
ー
あのプールの「事件」以来、黒木悠奏と私の関係は微妙なものになった。以前のようにいがみ合うことはなくなったけれど、かといって友達というわけでもない。むしろ、私たちは奇妙な距離を保っていた――遠くもなく、近くもなく、説明のつかない緊張感に満ちていた。
その日、黒木侑李さんの会社が毎年恒例の慈善パーティーを主催することになった。こういう上流社会の偽善的な集まりには参加したくなかったけど、結局はお母さんの強い勧めに逆らえなかった。
鏡に映った自分の姿を見て、私は固まった。
深い青色のシルクのガウンをまとい、黒髪は低い位置でシニョンにまとめられ、細い首筋が露わになっている。薄化粧で瞳はより深く見え、唇はベリー色に彩られ、全身が今まで見たこともない輝きを放っていた。
「葵ちゃん、本当にきれいよ」
お母さんが私の後ろに立ち、誇らしげな目で見つめている。
「ありがとう」
私は振り向いた。
「本当に今夜の場に、私で大丈夫かな?」
「もちろんよ」
彼女はきっぱりと言った。
「覚えておいて、あなたは瀬川葵であり、黒木葵でもあるの。誰にも劣ってなんかいないわ」
私たちの高級車が会場に着くと、私はその光景に圧倒された。豪華なボールルームはクリスタルのシャンデリアで輝き、シャンパンタワーがライトの下でキラキラと光り、高級ドレスに身を包んだ社交界の人々がそこかしこにいた。
手のひらが汗ばんできた。深呼吸、瀬川葵。あなたならできる。
「リラックスしろよ」
黒木悠奏が不意に隣に現れた。
振り向くと、息をするのも忘れそうになった。彼は完璧な黒のタキシードを着こなし、白いシャツが健康的な肌の色を引き立て、蝶ネクタイがセクシーな首筋を完璧に際立たせている。もう、なんでこんなに格好いいのよ?
「リラックスしてるわよ」
私は心臓の鼓動を無視しようとしながら嘘をついた。
彼は私を一瞥し、その目に複雑な何かがきらめいた。
「……きれいだ」
顔が一気に熱くなる。
「……どうも」
その時、吐き気がするほど甘ったるい声が背後から聞こえた。
「悠奏、ダーリン!」
振り返ると、金髪の女の子が私たちに近づいてくるところだった。
彼女は私の存在を無視して、まっすぐ黒木悠奏のもとへ歩み寄り、つま先立ちで彼の頬にキスをした。わざと体を密着させ、胸が彼の体に触れそうになっているのに気づく。
「今夜も信じられないくらい素敵ね。想像通り完璧だわ」
私は拳を握りしめた。くそっ、誰よこの女。
「森田絃葉」
黒木悠奏の声は冷静だったが、彼がわずかに後ずさったのがわかった。
「君もきれいだよ」
それから彼女は私の方へ向き直り、そのエメラルド色の瞳で私を上から下まで値踏みするように見た。
「あなたの……新しい同居人を紹介してくれないの?」
彼女は見下すように言った。
「森田絃葉、こちらは瀬川葵、俺の義理の妹だ」
黒木悠奏はそう言うと、私に向き直った。
「瀬川葵、こちらは森田絃葉、森田議員の娘さんで、俺の……」
「元カノよ」
森田絃葉が言葉を奪い、「元」を強調したが、その瞳に宿る所有欲は明らかだった。








