第4章
小林杏奈視点
口の中にまだ残るドッグフードの不快な味に、胃が痙攣して何度もえずいてしまう。
私は冷たい食堂のタイル張りの床に崩れ落ちた。震える体はもう脚では支えきれなかった。周りの笑い声が、厚いガラスの壁越しに聞こえてくるかのように、遠く、くぐもっていく。
お父さん、会いたいよ……
涙がドッグフードの残りカスと混じり合い、口の端からこぼれ落ちる。誰にも二度と拾われることのない、壊れて捨てられた人形になった気分だった。
どうして、小林瑛太まで私をいらないって言うの?
食堂の喧騒がさらに遠のき、視界がぼやけ始める。いっそ気を失ってしまった方が楽かもしれない。眠ってしまえば、この痛みも消えるかもしれない。
意識が途切れそうになった、まさにその時、声が耳に届いた。
「小林杏奈?小林杏奈!」
誰かが、私の名前を呼んでる……?
必死に目を開けると、ぼやけた人影がこちらへ走ってくるのが見えた。見たことのない青年だった。十八、九歳くらいだろうか。くしゃくしゃの茶色い髪に、着古したジャケットを羽織っている。
「なんてことだ、一体何があったんだ?大丈夫か?」
彼は私のそばに膝をつき、その目には偽りのない心配の色が浮かんでいた。
その思いやりに満ちた声色に、思わず泣きそうになった。こんなに温かい声で話しかけられたのは、いつぶりだろう。
「俺は青木浩司。怖がらなくていい。助けに来たんだ」
彼は優しく私を支え、座らせてくれた。
「ここは危ない。ここから出してやる」
青木浩司?聞いたことのない名前だった。
「あなた……誰、ですか?」
私はか細い声で尋ねた。
「学校の整備士だよ。備品の修理なんかをしてる」
彼は慎重に私を支えながら言った。
「さっきのこと、見てた。あいつらはやりすぎだ」
彼の手は温かかった。小林瑛太の冷たい感触とは全然違う。私は、ずっと昔に失くしてしまった安心感を、ほんの少しだけ感じた。
「さあ、行こう」
青木浩司は周りを見渡し、誰も私たちに気づいていないことを確認すると、そっと私を食堂から連れ出してくれた。
青木浩司のトラックは古かったけれど、清潔にされていた。彼は私を町の外れにある二十四時間営業の飯屋「メルの食堂」に連れて行ってくれた。暗闇の中で、ネオンサインが温かいピンク色の光を明滅させている。
店の中は味噌汁と揚げたての唐揚げの香りがした。その素朴な匂いに、なぜか胸が熱くなって鼻の奥がツンとした。
普通の生活って、こんなにも素敵なんだ。
「好きなところに座ってて」
青木浩司は私にそう言うと、カウンターの方へ歩いていった。
「何か温かいもの、持ってくるから」
私は一番静かな隅のボックス席を選び、彼がウェイトレスと話しているのを眺めた。彼は背が高くがっしりしていて、時折身振りを交えながら話す姿には、飾らない温かさがあった。
どうして、見ず知らずの人がこんなに親切にしてくれるんだろう?
数分後、青木浩司がお盆を持って戻ってきた。温かいスープ、ラーメン、そして大きなカップに入ったホットココアが乗っていた。
「お腹、空いてるだろうと思って」
彼は私の向かいに座り、ココアをこちらへ押しやった。
「これで温まるといい」
カップを両手で包み込むと、温かい陶器の感触が手のひらから心まで伝わってくるようだった。ココアを一口飲むと、口の中にこびりついていた不快な味が洗い流されていく。
「ありがとう……ございます」
私は声を詰まらせた。
「なんてお礼を言ったらいいか……」
「礼なんていらないよ」
青木浩司は首を振った。
「いいから、食べな。ここ何日か、ろくな食事してないみたいに見えるぞ」
彼の言う通りだった。私は夢中で食べた。一口一口が、救いのようだった。
「それで……」
青木浩司は慎重に切り出した。
「さっきのこと、聞いてもいいかな?立ち去っていった男を見たんだが――あれは、君の兄か?」
小林瑛太の名前が出た途端、また涙がこぼれ落ちた。
「彼は、私のことが憎いの」
言葉が、三ヶ月間溜め込んできた痛みを乗せて、堰を切ったように溢れ出した。
「私が何をしたっていうのか分からない。でも、彼はただ……本当に、心の底から私のことが憎いんだ」
青木浩司は眉をひそめながら、私にナプキンを手渡した。
「家族が家族にあんな仕打ちをするもんじゃない。あれは憎しみじゃない――虐待だ」
誰かが、私を分かってくれる……
「三ヶ月前まで、彼は私を守ってくれる人だったんです」
私は涙を拭った。
「今は、まるでゴミを見るような目で私を見る。お父さんがまだ生きていてくれたら……」
「お父さん、亡くなったのか?」
青木浩司の声が、より一層優しくなった。
「心臓発作で。病院に二人でいた時、小林瑛太は、ずっと私を守るって約束してくれたんです」
私は自嘲気味に笑った。
「それが、彼が私についた最後の嘘でした」
青木浩司は手を伸ばし、そっと私の手に触れた。
「つらかったな、小林杏奈。誰もこんなことを一人で経験すべきじゃない」
もう、一人じゃない……
外の駐車場で、私たちは彼のトラックの荷台に腰を下ろした。夜空は黒いベルベットのように澄み渡り、星々がダイヤモンドのようにきらめいていた。
青木浩司は運転席の後ろからギターを取り出した。その木製のボディが月明かりの下で柔らかく輝いている。表面には小さな傷や古いステッカーの跡が見えた。このギターは、彼と長い時間を共にしてきたのだろう。
「弾けるんですか?」
私は尋ねた。ここ数ヶ月で初めて、声に好奇心が宿っていた。
「独学だよ」
彼は弦を弾き、手際よくチューニングを合わせた。
「もう音楽だけが、唯一意味のあるものなんだ。分かるだろ?」
分かる。音楽は、お父さんと私を繋ぐ最後の絆だから。
彼は私の知らない曲を弾き始めた。そのメロディーは柔らかく、優しかった。彼が目を閉じ、完全に音楽に没頭していることに気づいた。その表情には、私が今まで見たことのないような安らぎが浮かんでいた。
「この曲……」
私は囁いた。
「綺麗ですね」
「弟が好きだった曲なんだ」
青木浩司は突然、目を閉じたまま言った。指は弦の上で踊り続けている。「これを弾くたびに思い出すんだ。彼がまだ小さかった頃、隣に座って俺の練習を聴いてたのを」
「弾いてみるか?」
青木浩司は演奏をやめて目を開け、私を見た。
私は頷いた。彼は体勢をずらし、私を彼とギターの間に座らせてくれた。彼の胸が私の背中に押し付けられた。彼の安定した心臓の鼓動と、温かい息遣いが伝わってきた。
これが、安心するってことなのかな?
「指をここに置いて」
彼の手が私の手を覆い、弦を押さえるように導いてくれた。
「振動、感じるか?」
彼の声はすぐ耳元で聞こえ、その温かい息に頬が赤らんだ。二人で最初のコードを鳴らした時、音楽の共鳴が私たちの間を流れた。
「さっき話してた弟さん……」
私は慎重に尋ねた。
「今も一緒に住んでるんですか?」
青木浩司の指が止まり、彼の体がわずかにこわばるのを感じた。
「いや。母さんと一緒に住んでる。離婚してから……色々複雑でな」
「会いたいでしょうね」
「毎日な」
青木浩司の声は、優しく、そして複雑な響きを帯びた。
「でも、俺は必死で働いてるんだ。俺たち二人のためにもっと良い生活を築こうとしてる。いつか、俺のところに呼び寄せるんだ」
彼は、家族の大切さを分かってるんだ。
私は彼の方を振り向いた。月明かりの下、彼の横顔は特に柔らかく見えた。その瞬間、彼の瞳の奥にある孤独が見えた。それは、私の心の中にある孤独と共鳴していた。
「青木さん……私、ここを出たいです」
彼は凍りついた。
「出る?どこへ行くんだ?」
「どこへでも」
涙がまた込み上げてきた。
「もう耐えられない。小林瑛太の憎しみも、学校のみんなが私をゴミみたいに扱うのも。私にはもう、ここには何も残ってないんです」
青木浩司は長い間黙っていた。心の中で何かと葛藤しているようだった。
「それは、大きな決断だぞ、小林杏奈」
「お願いします」
私は彼の手を掴んだ。
「ここ数ヶ月で、私に親切にしてくれたのはあなただけです。何でもします、どこへでも行きます。だから……お願い、私をここに置いていかないで」
彼は私の目を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「分かった。もしそれが、本当に望むことなら……俺が手伝ってやる」







