第1章

絵里視点

「あんた正気なの!? アフリカよ? エボラ出血熱が発生してるのよ!」

私は肩と耳で携帯を挟み込み、重いスーツケースを引きずりながら空港の出発ロビーを歩いていた。巨大な床から天井までの窓から午後の強い日差しが差し込み、地面にまだらな影を落としていたが、私の胸に重くのしかかる暗い雲を払いのけることはできなかった。

「梨乃、もうやめて」私は下唇を噛み、声の震えを抑えながら言った。「決心は変わらないから」

「あのクソ野郎のせいで? お願いだから、絵里、目を覚まして! あいつにそんな価値は.......」

「わかってる!」思わず叫んでしまい、何人かの旅行客が振り返って私を見た。深く息を吸い、声を潜める。「彼が婚約することも、菜々緒がどんな女かも、わかってる。でも……」

『でも、知っていることと、それを自分の目で見ることは、全く別のことなんだ』

「ねえ、聞いて。男一人のためにアフリカにまで行く必要なんてないのよ。和也はあなたに何の約束もしてくれなかったじゃない。どうして.......」

「もういいって言ってるでしょ!」私はほとんど絶叫していた。「私は何も逃げてなんかない、梨乃。人の命を救いに行くの。意味のあることをするために。あそこでは医者が必要なの。私の技術が」

『本当に? それとも、ただできるだけ遠くに逃げたいだけ?』

数秒の沈黙の後、梨乃の声が優しくなった。「絵里……まだ二十一歳なのよ……」

「もう大人よ」私は乱暴に電話を切った。

ゲート近くの席を見つけ、そこに崩れるように座った。搭乗まであと二十分、この息の詰まる場所から、やっと永遠に逃げられるまでの、二十分。

高鳴る心臓を落ち着かせようと目を閉じたが、頭上からの声に、私ははっと目を開けた。

「ただいまより、B市を代表する名門医療一族、五条家の婚約披露宴の模様を、会場から生中継でお伝えします……」

全身の血が凍りついた。

ゆっくりと顔を上げると、テレビ画面に映し出された映像が、刃のように私の心を突き刺した。

壮麗な五条家の屋敷の中、クリスタルのシャンデリアが煌びやかに輝いている。和也は完璧に仕立てられた黒のタキシードを身にまとい、背筋を伸ばしていた。ライトの下、その横顔は大理石の彫刻のようだった。

彼の隣には菜々緒が立っていた、絹のように肩に流れる金色の髪。空色のドレスは彼女をまるで天使のように見せていた。優雅な首筋には、ダイヤモンドのネックレスが煌めいている。

無意識に自分の喉に手が伸びる。そこには何もない。

『これが、私が決して手の届かなかった世界……』

「B市最年少の心臓外科部長である五条和也さんが、本日、邸宅で盛大な婚約式を執り行っています……」

カメラは菜々緒へのインタビューに切り替わった。その完璧すぎる笑顔に、私は吐き気がするほどの嫉妬を覚えた。

「五条菜々緒さん、この度の婚約についてのお気持ちをお聞かせいただけますか?」

「はい、もちろんです」菜々緒の声は柔らかく、耳に心地よかった。「和也は、私に本当の愛とは何かを教えてくれました。互いの尊敬と、共有する夢の上に築かれる、深い絆のことです」

私の両手が震え始め、カップの中のコーヒーが揺れた。

『互いの尊敬? 共有する夢? じゃあ、私は? 彼にとって、私は何だったの?』

「お二人をこの瞬間に導いたものは何だと思われますか?」

菜々緒は軽く笑った。「良い愛は、熟成するのに時間が必要なんです。この時間が、私たちがお互いにふさわしいと、より確信させてくれました。和也は今、自分が本当に何を望んでいるのかをわかっているんです」

時間?

私は九年間も捧げた! 十二歳から二十一歳まで、私の青春のすべてを、鼓動のひとつひとつを、夢のすべてを捧げたのに! それに対して、彼は私に何をくれたっていうの?

ガシャン!

コーヒーカップが手から滑り落ち、黒い液体が床に弾け、私の白いスニーカーに飛び散った。熱いコーヒーに、思わず息を呑む。周りの旅行客たちが、こちらを見てひそひそと囁いている。

でも、私はただテレビ画面を見つめていた。カメラは式典の様子に戻っていた。司祭が、華やかに飾られた祭壇の前に立ち、その表情は厳かで神聖だった。

「では五条和也さん、花嫁となる方にキスを」

やめて。

いや、やめて、やめて。

和也がゆっくりと菜々緒の方を向き、その両手で優しく彼女の顔を包み込む。あの手、手術台で私の命を救ってくれたのと同じ手。熱を出した私の額に触れてくれた手。私が泣いているときに、ティッシュを差し出してくれた、あの手が。

今、その手は、別の女性の頬を優しく撫でている。

時間が凍りついたようだった。私は和也が身をかがめ、その唇が菜々緒に向かっていくのを見ていた。彼女が目を閉じ、その顔が幸福に満ちていくのを見ていた。

教会が割れんばかりの拍手と歓声に包まれるのを見ていた。

『そして私はここで、まるで部外者のように、冷たい画面を通してそのすべてを見ている』

誰かに素手で心臓をえぐり出され、踏みつけられたような気がした。胸の中は空っぽで、痛みだけが響いていた。

「お客様? 大丈夫ですか?」

ぼんやりと顔を向けると、制服を着た航空会社の職員が、ティッシュを手に心配そうに私を見ていた。

「……大丈夫です」

機械的にティッシュを受け取り、しゃがみ込んでコーヒーとガラスの破片を片付けた。涙で視界がぼやけ、震える指先でガラスの破片がキラリと光る。

『泣くな。五条絵里、ここで絶対に泣いてはいけない』

そう、私は五条、まあ、それは美しい嘘でしかなかったけれど。

九年前の記憶が、潮のように押し寄せてくる……。

手術台の上で、心電図モニターがけたたましくアラームを鳴らしていた。胸が押しつぶされるように痛くて、息ができなくて、何もかもが霞んでいた。

「パパ! ママ!」十二歳の私は泣きながら、何かに掴まろうと手を伸ばしていた。

その時、温かくて大きな手が私の手を取った。

「絵里、僕を見て」その声は落ち着いていて、優しかった。「僕は五条和也。ご両親から、君の面倒を見るように頼まれたんだ。ずっとそばにいるから、ね?」

「……私の、新しいパパになってくれるの?」

その深い灰色の瞳に何かが揺らめき、そして彼はそっと言った。「僕は君の名付け親だよ、絵里。ずっと君を守るから」

名付け親。

なんて皮肉な言葉だろう。それは守りと愛を意味するはずだったのに、私たちの間にある、決して越えられない溝となった。

私はゆっくりと立ち上がり、待合室の隅にある空いた椅子へと歩いた。膝を抱え、腕に顔をうずめると、周りの喧騒が遠のいていく。

九年間、私の世界にはたった一人しかいなかった。

私の最も暗い瞬間に現れた人、ずっと守ると約束してくれた人、骨の髄まで愛しているけれど、決して手に入れることのできない人。

今、彼はテレビの中で別の女性にキスをし、私は馬鹿みたいに空港の隅に座っている。

あの辛い夜が、鮮明に蘇ってきた……。

「和也、愛してる」私はありったけの勇気を振り絞って、彼の目をまっすぐに見た。

彼の表情は、瞬時に冷たくなった。「絵里、自分が何を言っているのかわかっていない」

「わかってる! もう大人だもの。愛が何かくらいわかるわ!」

「いや、わかっていない」彼の声は厳しかった。「君はただ、感謝と愛を混同しているだけだ。僕は君の名付け親なんだよ、絵里。いつまでも、ただの名付け親だ」

「でも、私は.......」

「もういい」彼は冷酷に私を遮り、その瞳の氷のような冷たさに私は身震いした。「二度とそんな馬鹿げたことは聞きたくない。僕が君を救ったことに本当に感謝しているなら、その馬鹿げた考えは忘れてくれ」

その瞬間、私は彼にずたずたに引き裂かれたような気がした。

今でも、あの骨身に染みる冷たさを感じることができる。

バッグの中で携帯が狂ったように震えた。震える手で取り出すと――画面には和也の名前が点滅していた。

その名前を見つめていると、ついに涙がこぼれ落ちた。

『婚約式の最中に、私に電話してくるの?』

『どれだけ幸せか、伝えたいの?』

『それとも、私が永遠にただの部外者だってことを、思い出させたいの?』

携帯は何度も何度も鳴り続け、その着信音ひとつひとつが私の胸を打ちつけた。

いや。

彼の声は聞かない。

彼が口にするであろう、どんな丁寧な「祝福」の言葉も聞きたくない。

彼にこれ以上、私を傷つける機会は与えない。

まるでそれですべてを断ち切れるかのように、力強く電源ボタンを長押しした。

画面が暗転する。世界が静かになった。

「アフリカン航空、キンシャサ行きAA7809便は、ただいまより搭乗を開始いたします。ファーストクラス、ビジネスクラスをご利用のお客様は、ゲートまでお進みください……」

アナウンスが、私を痛みの中から現実へと引き戻した。顔の涙を拭い、深く息を吸って、立ち上がる。

「さよなら、和也」私は囁いた。「今度こそ、あなたのことを完全に忘れるから」

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