第1章 もしもう一度やり直せるなら

涼宮寧音は控室の扉の前で、緊張に肩を強張らせたまま立ち尽くしていた。手の中のスマホを、ぎゅっと握りしめる。

画面に映っているのは、養母・涼宮佳子から届いたメッセージ。

「寧音、もう着く? 辰木がずっと待ってるわ」

今日は——自分の婚約の日だ。

そのために、彼女はたった一着しかない、まともなドレスに着替えてきた。

十歳の頃から、こっそり好きだった人。

彼が一度笑いかけてくれるだけで、一日中、胸が浮き立った男。

その男が、今日から自分の婚約者になる。

涼宮寧音は深く息を吸い、扉に手を伸ばした。

——その瞬間。

中から漏れてきた会話が、彼女の全身を凍りつかせる。

「お母さん、涼宮寧音って疑わないかな?」

甘ったるく、柔らかい声。涼宮遥香だ。

「だってさ、当時って、全市の血液検査の結果が出たその日に孤児院へ行って、彼女を引き取ったんでしょ? そんな偶然、ある?」

「疑う?」涼宮佳子の声は、どこまでも気だるい。

「どうせあの子、頭が鈍いもの。これまでだって、ずっと言うこと聞いてきたでしょ。あんたが『具合が悪い』って言えば、あの子はいつだって嫌な顔一つせず血を分けに来てくれた。骨髄穿刺なんてあんなに痛いのに、拒んだことあった?」

「もう、お母さん……」遥香がわざとらしく語尾を伸ばす。

「でも私、ちょっと罪悪感あるんだよね。特に寧音の二十三の誕生日。私が発作のふりしてさ、危ないって聞いたらすぐ病院に飛んできて……500mlも抜いたでしょ。顔から完全に血の気が引いて、真っ白になっていた。見てるほうが可哀想だった」

涼宮佳子が鼻で笑う。

「可哀想? 何が? 血液型が合わなきゃ、涼宮家で十五年もいい暮らしできた? あれくらい当然の『役目』よ。使えなくなったら追い出せばいいだけ」

涼宮寧音の全身の血が、一瞬で凍りついた。

ふらり、と身体が揺れ、壁に手をつく。

十五年。

まるまる、十五年。

この家に受け入れられたと信じていたのに——まさか、最初から。

初めて献血した日の記憶が、勝手によみがえる。

涼宮家に引き取られて間もない、八歳の頃。細い血管に針が刺さった瞬間、痛みで涙が止まらなかった。

そのとき佳子は抱きしめて言った。

「寧音、いい子ね。妹を助けるほうが大事。妹がよくなったら一緒に遊べるわ」

信じた。

十歳で初めて骨髄を抜いたときも。

麻酔が切れ、痛みで一晩中眠れなかった。佳子は手を握り、優しく囁いた。

「寧音が一番強い。遥香の病気は、あなたにかかってるのよ」

耐えた。

献血に、骨髄採取に、そして幹細胞採取。

何度繰り返したのか、もう覚えていない。

ただ終わるたび、佳子は頭を撫でて言った。

「寧音は本当に聞き分けがいい。涼宮家も育てた甲斐があるわ」

——育てた甲斐。

そういう意味、だったのか。

「遥香、心配するな」

男の声がした。婚約者・江口辰木の声。

「俺が涼宮寧音と婚約するのも、お前のためだ。もっと『血袋』として縛りつけるため。完全に使えなくなったら婚約解消して、堂々とお前を迎える」

遥香が甘えた声で言う。

「辰木、そんなふうにしたら……お姉ちゃん、可哀想」

「可哀想?」辰木は淡々と返す。

「俺が愛してるのはお前だけだ。あいつが何だって? ただの血袋だろ」

血袋。

涼宮寧音は下唇を強く噛みしめ、鉄の味を感じた。

この人たちにとって、十五年の努力も媚びも我慢も、全部「当然なこと」。

唯一の価値は——遥香の血袋であること。

逃げ出したかった。

けれど脚が鉛を流し込まれたみたいに動かない。

そのとき、トレーを持ったスタッフが通りかかり、丁寧に声をかけてきた。

「お客様、婚約パーティーにご出席ですか? 控室までご案内しましょうか」

扉の向こうが、ぴたりと静まり返る。

次の瞬間——扉が勢いよく開いた。

最初に出てきたのは涼宮佳子。寧音を見るなり、顔色がわずかに変わったが、すぐに慈母の仮面へ戻す。

「寧音? いつ来たの? どうして入らなかったの」

遥香がその後ろから出てきて、目を潤ませる。

「お姉ちゃん……まさか、全部聞いちゃった?」

廊下の向こうから、長男の涼宮宇一が歩いてくる。状況を見るなり眉をひそめた。

「どうした?」

「お兄ちゃん……」遥香が泣きそうに彼の袖をつかむ。

「お姉ちゃんが何か勘違いしてるみたい。顔色もすごく悪くて……」

続いて辰木も現れた。寧音の青白い顔と目に浮かんだ涙を見ると、露骨な苛立ちがよぎる。

「寧音、用があるなら中で話せ。外で恥を晒すな」

恥を晒す?

涼宮寧音は顔を上げ、目の前の人間たちを見た。

孝行しようとした養母・佳子。

守ってきた養妹・遥香。

尊敬していた兄・宇一。

そして——八年も愛した辰木。

急に、笑えてきた。

「全部、聞いた」

佳子の目が揺れる。だがすぐに、胸が痛む母親の顔を作った。

「寧音、聞き間違いじゃない? さっきのは遥香と冗談を……」

「冗談?」寧音は遮った。声が震える。

「私の血液型が遥香と合うって分かったから引き取ったのも冗談? この何年も献血して、骨髄まで抜かされてきたのも冗談? それとも——私の十五年が、あなたにとって冗談だったってこと?」

「涼宮寧音!」宇一が顔を険しくする。

「母さんに何て口を利く。涼宮家が引き取ってやったのに、そんな態度で返すのか?」

「恩?」寧音の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。

「八歳で涼宮家に来て、今は二十三。何回血を抜かれて、何回骨髄を抜かれたか……私ですら数えられない。これでも、まだ恩返しが足りないの?」

「お姉ちゃん……」遥香がしゃくり上げる。顔色は真っ青だ。

「全部私が悪いの。体が弱くて、お姉ちゃんに迷惑かけて……責めるなら私を責めて。お母さんやお兄ちゃんは責めないで……」

そう言いながら、よろりと身体を揺らす。

宇一がすぐに支え、寧音を見る目に露骨な嫌悪をにじませた。

「ほら見ろ、遥香をこんなに怯えさせて! 体が弱いって分かってるだろ。文句があるなら俺に言え!」

寧音は乾いた笑いを漏らした。

「私があなたに言えばいいのね。遥香には守ってくれる人がいる。じゃあ私は? 私の味方は誰なの?」

宇一の表情が、わずかに揺れた。

「もういい」辰木が冷たく言う。

「涼宮寧音、お前はどうしたいんだ? 今日は俺たちの婚約の日だぞ。わざわざ騒ぐ気か?」

何も見ずに「騒ぐ」と切り捨てられた瞬間、心臓がきゅっと締めつけられる。

寧音は震える息を飲み込み、言った。

「婚約の話をするなら聞く。あなた……私に一度でも本気だったこと、ある?」

辰木は視線を逸らし、黙った。

それで十分だった。

遥香が、タイミングよく「気を失った」。

宇一は素早く抱きかかえ、寧音を睨みつける。

「遥香に何かあったら許さない!」

佳子も前へ出かけたが、ふと振り返った。

「寧音ね、お母さんは本当はあなたを涼宮家に体面よく置いておいて、遥香が完全によくなったらお金を渡して出ていかせるつもりだったの。なのにあなたが騒ぐなら……お母さんもこの十五年の情は捨てるわ」

十五年の情。

寧音は涙を流しながら笑った。

「あなたが私に? 情なんて、あったの?」

佳子の目が完全に冷える。

「台を用意してやったのに降りないなら、もう娘扱いする必要もないわね」

寧音が前にいるのを見ると、佳子は容赦なく手を伸ばし——寧音を突き飛ばした。

「っ——」

手を出されると思わず、よろめいて後退する。腰が背後の手すりにぶつかった。

手すりは低い。腿のあたりまでしかない。

身体が——後ろへ傾く。

「——いやっ!」

時間が止まった。

佳子が素早く手を引っ込め、怒りが驚愕へ変わるのを寧音は見た。だが、その目に心配は一欠片もない。

宇一は「気を失った」遥香を抱いたまま、振り返りもせず行ってしまう。

辰木は反射的に一歩踏み出し、掴もうとした——が、掴む寸前で手を引いた。

遥香が、ちょうどその瞬間に目を覚まし、弱々しく「辰木……」と呼んだから。

辰木は彼女へ向き直った。

二十六年生きてきて——誰も、自分を気にかけなかった。

一人も。

寧音の身体は四階から落下し、地面へ叩きつけられた。

激痛が全身を貫き、後頭部から温かい液体が流れ出すのが分かる。

周囲の悲鳴が、波のように押し寄せた。

混乱の中、寧音の視線は四階の手すりへまっすぐ向けられていた。

佳子も宇一も辰木も、遥香を囲んで必死に慰めている。

誰も下を見ない。

瞼が重くなり、意識が遠のく。

これが、自分の結末。

最後まで——誰にも気にされない血袋。

もし、生まれ変われるなら……。

寧音は抗えず、ゆっくりと目を閉じた。

もしやり直せるなら、二度とあの人たちの嘘を信じない。

もしやり直せるなら、自分のためにだけ生きる。

もし——。

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