第2章 この芝居、どう演じ続けるつもりだ!
「寧音? 涼宮寧音! 寝てる場合じゃない!」
涼宮寧音は跳ね起きるように目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見慣れているはずなのに、どこかよそよそしい天井。
ここは……涼宮家の、自分の部屋?
「涼宮寧音! 耳ついてんのか!」
扉の向こうから、涼宮宇一の苛立った声が叩きつけられる。
「遥香の具合が悪い。さっさと起きて病院行け、遥香に献血してこい!」
涼宮宇一は——さっきまで。自分が転落したとき、振り返りもせず涼宮遥香を抱いて行ったはずだ。
なのに、どうして献血を催促する?
涼宮寧音はゆっくり上体を起こし、後頭部に手をやった。傷はない。
助かったのだとしても、こんな短時間で無傷なはずがない。
枕元のスマホを掴み、カレンダーを開く。
2023年。
……嘘。
これって——転生……いや、やり直し?
しかも、二十三歳の誕生日。涼宮遥香が仮病で自分から血を抜かせた、あの日だ。
「涼宮寧音!」
扉がドン! ドン! と揺れるほど叩かれる。宇一の堪忍袋は限界寸前だ。
「三つ数えるぞ。出てこなきゃ蹴破る!」
涼宮寧音は仕方なくベッドを降り、扉を開けた。
宇一は彼女を見るなり眉をひそめる。
「何ぐずぐずしてる。遥香は病院で待ってるんだぞ。どれだけ緊急か分かってんのか?」
不機嫌と嫌悪が、その眉間にくっきり刻まれている。けれど——どこか若い。数歳、若返ったように見えた。
胸の奥で確信が固まる。
本当に、戻ってきた。
「何見てんだ」宇一が視線を逸らす。
「着替えろ。10分以内に下りてこい」
吐き捨てるように言い残し、背を向けて去っていった。
涼宮寧音は部屋へ戻り、鏡の前に立つ。
映っているのは整った顔立ちの少女——なのに、肌は青白く、目の下には濃い隈。長年の栄養不足と、頻繁な採血が刻んだ痕だ。
クローゼットを開ける。
色褪せた服が数枚並び、まともな一着はただ一つ。前の人生で、婚約パーティーへ着ていったあのワンピース。
涼宮寧音はそっと指先で触れてから、すぐに視線を外した。
もし神が、もう一度だけやり直す機会をくれたのなら。
今度は——同じ末路になんてしない。
……
リビング。
涼宮佳子はソファで紅茶を飲んでいた。寧音の姿を認めると、いつもの慈愛の笑みを浮かべる。
「寧音、起きたの? 少し食べなさい。あとで病院なんだから」
テーブルには豪華な朝食がずらりと並ぶ。
けれどそれは、すべて涼宮遥香の席の前に置かれていた。
寧音の前には、薄いお粥が一杯と漬物が少し。
——これが涼宮家の「当たり前」。
いいものは遥香へ。自分は腹が満ちればいい。
寧音が席についた途端、佳子は時計を見て急かした。
「寧音、早く。遥香のところは待てないの。さっき病院から電話があって、状態がよくないって。すぐ輸血が必要なんですって」
「うん」
寧音は短く返し、淡々と粥をすすった。
反応が薄いことに、佳子の眉がぴくりと動く。
——この子ならいつも、「食べなくていい、先に行く」って言い出すはずなのに。
そこへ、涼宮宇一が階段を下りてきた。寧音がまだ粥を口に運んでいるのを見て、顔が曇る。
「まだ食ってんのか? 遥香が病院で寝てるのに、お前はここでのんびり粥かよ」
涼宮寧音は顔を上げた。
「お兄ちゃん、今何時?」
「7時半だ。だから何だ」
「面会って何時から?」
「8時」宇一は苛立たしげに言い、続けようとする。
「でも遥香は緊急で——」
「8時からしか入れないなら」寧音は遮った。
「今行っても病室の外で待つだけでしょ。早く行く意味ある?」
宇一が言葉を失う。
佳子の視線がわずかに変わった。
「あなた、この子……急にどうしたの? 遥香は妹よ。苦しんでるのを見たら、私たちだって苦しい。少しでも早く側にいたいのは当然でしょう」
涼宮寧音は佳子の目をまっすぐ見返す。
「病院の決まりだから、早く行っても側にはいられない。違う?」
空気がすっと冷えた。
宇一と佳子は目を合わせ、困惑を滲ませる。
涼宮寧音はずっと、受け入れてもらうことを渇望していたはず。
なのに今日は、まるで別人みたいだ。
宇一の表情が複雑に歪む。
「涼宮寧音、お前……何がしたいんだ。頭おかしくなったのか?」
佳子は動揺を押し隠し、慈母の仮面を貼り直す。
「寧音、どうしたの? どこか具合でも悪いの? 急にそんな——」
「今日はあなたの誕生日だけど、遥香の体が——」
言い終える前に、バタバタと乱暴な足音が飛び込んできた。
涼宮家の次男、涼宮啓介だ。
涼宮家でいちばん遥香を甘やかす男。短気で荒っぽいくせに、遥香にだけはやたら優しい。
啓介は寧音がまだ家にいるのを見るなり、開口一番怒鳴りつけた。
「涼宮寧音、よくもノコノコ座ってられるな! 遥香が病院で寝てんのに、家で何をもたもたしてる! さっき兄貴が起こしに行ったの見たぞ。自分がそんなに偉いと思ってんのか? 家族総出で迎えに来いってか!」
涼宮寧音は目を上げる。
前の人生でも、啓介は同じようなことを言った。
そのとき自分は、必死に謝って「次から気をつけます」と言って——「それが当然だ」と切り捨てられた。
でも、今回は違う。
寧音は何も言わず、視線を落として、ゆっくり粥をすすり続けた。
啓介は無視されたことが信じられず、怒りが跳ね上がる。
「おい、何その態度? 話してんだろ!」
「啓介、そんな言い方しないの」佳子が間に入る。
「寧音は寝不足なのかもしれないし……寧音、啓介は短気なだけ。気にしないで」
——またこれだ。
怒る役と宥める役。完璧な役割分担。
前の人生の記憶がなければ。今日の遥香が「演技」だと知らなければ。
きっとまた、騙されていた。
涼宮寧音は佳子を見据え、一語一語はっきり言った。
「涼宮遥香には、献血しない」
空気が凍りつく。
啓介が真っ先に反応し、寧音の手首を掴んだ。
「涼宮寧音! 今、何て言った?」
涼宮寧音は静かに繰り返す。
「献血しない」
その瞬間、背後から声がした。
「正気か? 遥香が命懸けで待ってるのに、家で何を意地張ってる」
涼宮寧音が振り向く。
涼宮卓実——涼宮家の三男。
隠し子ゆえ立場は微妙だが、遥香を可愛がる度合いは他の兄たちと変わらない。
涼宮寧音は鼻で笑った。
「啓介兄さん、覚えてる? この前、友だちと食事してたとき。遥香が発作だって電話してきたよね。私、ご飯も食べ終わらず病院へ行って400ml抜いた。終わって立っていられないくらい眩暈がしたとき、誰か私を心配した?」
「まだ数日しか経ってない。体も戻ってないのに献血したくない——それが、あなたたちにとっては『わがまま』なの?」
啓介の視線が一瞬泳ぐ。だがすぐに強がった。
「遥香は病人だろ。お前は健康だ。血ぐらいどうした? 死ぬわけじゃねぇし、すぐ戻る!」
「八歳から、献血も骨髄も幹細胞も——それを『血ぐらい』って言うの?」
「お前——」
寧音は言葉を切った。
「それに今日、遥香は発作なんて起こしてない」
「ふざけるな!」啓介が激昂する。
「遥香が嘘つくわけねぇだろ! あんなに優しいのに!」
「信じる信じないは勝手。でも私は今日は献血しない——」
そのとき、玄関から声がした。
「寧音」
振り返ると、江口辰木が足早に近づいてくる。
スーツを着こなし、整った顔に「ちょうどいい心配」を貼りつけた男。
前の人生、寧音がいちばん惹かれたのは、その優しい顔だった。
今見ると——滑稽でしかない。
辰木は寧音の前で足を止め、柔らかい声を作る。
「寧音、この前のオークションの件で怒ってるのか? あのピンクダイヤは遥香が気に入ったから買ってあげただけだ。欲しいなら、次はもっといいのを落としてやる」
その言葉で啓介が爆発した。
「それが理由かよ? 涼宮寧音、お前ちっちぇな! 遥香が好きなら辰木が贈って何が悪い? それで献血しないって?」
卓実も冷たく笑う。
「所詮、血が繋がってない。育てても懐かないな」
佳子はため息をつき、失望した顔を作った。
「寧音、お母さんはあなたは聞き分けのいい子だと思ってたのに……もういいわ。どうしても嫌なら無理は言わない。お母さんが医師にお願いして、血液バンクから手配できないか聞いてみる。でも……遥香が間に合うかどうか……」
そう言って、目尻を赤くする。
その芝居を、寧音は二度見た。
もう見抜けないほど愚かじゃない。
口を開こうとした、そのとき——啓介のスマホが鳴った。
「もしもし? ……は? 遥香の状態が悪化? すぐ行く!」
電話を切るなり、啓介は寧音を睨みつける。
「涼宮寧音、見ろ! お前のせいだ! 今日の血はな、献血しようがしまいが関係ねぇ。お前は献血するんだ!」
そう言って腕を掴み、玄関へ引きずる。
「遥香に何かあったら許さねぇからな! せいぜい祈れ!」
涼宮寧音はよろめきながらも、目の奥は冷えていた。
ここまで来たら、行ってやる。
自分が献血を拒んだとき——涼宮遥香がこの芝居を、どう続けるつもりなのか。
最後まで、見届けてやる。
