第3章 飼い慣らせない恩知らず
しばらくして、病院。
涼宮啓介は涼宮寧音の手首を掴むと、そのまま救急救命棟へ引きずり込んだ。
涼宮家はこの病院の株主でもあり、専用のVIPルートがある。行く手を阻まれることもなく、一行はそのまま涼宮遥香の病室前まで雪崩れ込んだ。
ちょうど医師が扉を押し開けて出てくる。
「涼宮夫人、ちょうどよかった。涼宮お嬢様のご容体が非常に危険です。凝固機能に異常が出ています。すぐ輸血が必要ですが……血液バンクの在庫が足りません」
涼宮佳子は足元をふらつかせ、縋りつくように言った。
「森本先生、お願いです、遥香を助けて……あの子は私の命なの。遥香に何かあったら、私も生きていけない」
江口辰木が苛立たしげに涼宮寧音へ視線を投げる。
「涼宮寧音、これがお前の望んだ結果か? 遥香はお前の妹だろ。何かあったら、一生胸を張って生きられるのか」
涼宮寧音はその視線を受け止めた。
生まれ変わってもなお、かつて愛した男が別の女に全てを傾けるのを目の前にすると、胸の奥がちくちくと痛む。
どうして彼は、彼女を顧みずにいられるのに――当然のように、こちらへ犠牲を求められるのか。
「江口社長、面白いこと言うね」
寧音は淡々と言い返す。
「彼女、私の本当の妹じゃない。何が起きようが、私には関係ないでしょ」
それを聞いた涼宮啓介が、怒りで跳ね上がった。
「涼宮寧音! 医者の話、聞いたか? 遥香は今すぐ血が必要なんだ! 助けられるのに、意地張って献血しないとか……お前、人間か!」
啓介が手を伸ばし、無理やり採血室へ連れて行こうとする。
涼宮寧音は逃げなかった――いや、逃がさなかった。
一歩引いてその手をすり抜けると、身を翻し、脇の医療カートに肩をぶつけた。
ガンッ、と鈍い音。次いで、ガシャーン!
トレーも薬瓶も床へ散らばり、割れる音が廊下に響き渡る。
朝の時間帯で、廊下には受付待ちの患者や家族が多い。ざわざわと視線が一斉に集まった。
涼宮寧音は身を隠すどころか、むしろ声を張り上げた。泣きそうな声色に、わざと震えを混ぜる。
「啓介兄さん……遥香が大事なのは分かる。でも、私だって人間だよ!」
引っぱられて赤くなった手首を、あえて見えるように差し出す。
白い細い手首には指の痕がくっきり残り、紫色に変わり始めていた。
「前にも採血してるの。医者にも、重度の貧血だって言われた。これ以上抜いたら、死ぬって……!」
涙が瞳の縁に滲む。けれど落とさない。必死に堪えるその姿が、かえって痛々しい。
周囲の空気が一気に傾いた。ざわめきの質が変わる。
涼宮佳子は内心で舌打ちしつつ、慌てて寧音の手を取ろうとする。
「寧音、変なこと言わないの。これは遥香を助けるためで――」
「嘘じゃない!」
寧音は巧みに手を振り払った。
佳子はよろけ、表情の奥がすっと冷える。
――やっぱり養子は養子。血には敵わない。
そんな不満が胸の底で膨れ上がっていく。
けれど寧音は、佳子の顔色など気にしない。言葉を重ねた。
「十五年だよ。八歳で涼宮家に来てから、遥香が少しでも具合悪いって言えば、私は採血。腕は針跡だらけで、夏でも半袖が着られない」
その瞬間、周囲がひそひそと囁き始める。
「八歳から採血って……歩く輸血パックじゃない?」
「痩せすぎだろ。家族はあんなに着飾ってるのに、心が鬼だな」
涼宮啓介は、涼宮寧音の従順に慣れきっていた。こんな場所で恥をかかされ、プライドが煮え立つ。
「被害者ぶるな! お前は孤児だろ! 涼宮家に拾ってもらって食わせてもらってるくせに、遥香に血を少し分けるくらい何だってんだ!」
その言葉に、寧音は胸の内で冷笑した。
前世の自分は、この借金取りみたいな理屈に縛られて、人生を潰した。
もう二度と――。
「そう。私は養子」
寧音は背筋を伸ばしたまま言う。
「だからこそ、学校に通いながら家の雑事も引き受けて、必死で認めてもらおうとしてきた。でもあなたたちにとって私は――いつでも採血へ押し出せる道具だったんだね!」
そして、視線を江口辰木へ。
「あなたも。私の婚約者なのに、オークションで遥香にピンクダイヤモンドの指輪を贈った。今だって、私に命を削れって言う。そんなに遥香が大事なら、最初からどうして私と一緒にいたの?」
江口辰木の表情が揺れた。
常に支配し、寧音が自分に媚びるのが当たり前だった男にとって、人前での糾弾は屈辱だった。
「涼宮寧音、立場をわきまえろ」
声を落とし、脅すように言う。
「お前は涼宮家の人間だ」
涼宮寧音は冷たく笑った。
「涼宮家の門は高い。私は孤児で、涼宮家のお嬢様なんて器じゃない」
涼宮啓介の顔色が変わる。
「お前、正気か? 涼宮家が十五年育ててやった恩を、こんな些細なことで踏みにじって家も捨てる気か!」
――要するに、養子は懐かない、と言いたいのだろう。
寧音は怯まない。
「十五年抜かれた血と骨髄と幹細胞、その価値で養育費は十分相殺できる」
一拍置き、きっぱりと言い切った。
「啓介兄さんが私を恩知らずって言うなら、それでいい。今すぐ荷物をまとめて出ていく。これから先、生きようが死のうが涼宮家には関係ない!」
「出ていく?」
涼宮佳子の胸が跳ねる。
遥香の病は底なしだ。
だからこそ寧音を迎え入れた。
寧音が消えたら――今後の「血袋」はどうなる。
佳子は三人の息子へ視線で合図し、無理に笑って周囲へ取り繕った。
「誤解です。誤解なの。この子は妹が一番大事で……最近ストレスが溜まって、ちょっと口が滑っただけで」
それから江口辰木と涼宮三兄弟へ向き直る。
「あなたたちは先に病室へ入って、遥香のそばにいて。寧音のことは私が話すから」
涼宮啓介は寧音を忌々しげに睨みつけ、吐き捨てる。
「くだらねぇ、無理に決まってるだろ」
そう言い残して病室へ入った。
江口辰木も、複雑な目を一瞬だけ寧音に向けたあと、結局は涼宮三兄弟の背を追って扉の中へ消えた。
病室の扉が閉まったのを確認すると、涼宮佳子はすぐ慈母の仮面を被る。
「寧音、辰木はやりすぎね。あとでお母さんが叱ってあげる。遥香にも指輪を返させる。だから意地を張らないで……今は遥香の身体が――」
言葉を途切れさせる。いつもなら、ここで寧音が食いつく。
だが、涼宮寧音は口を開かなかった。
ただ、氷みたいに冷えた目で、涼宮佳子の芝居を眺めているだけだった。
