第4章 十八年捧げた血、どぶに捨てたつもりで諦める

病室の中。

涼宮遥香はベッドに上体を預け、半身を起こしたまま横たわっていた。頬は血の気が引き、透けるように白い。

江口辰木たちが入ってくるなり、彼女は声を殺してすすり泣く。

「辰木……お姉ちゃんを責めないで。私が運が悪いだけ、身体が言うことを聞かないだけなの……お姉ちゃん、もう何度も私のために血をくれたでしょ。今はもう採血したくないって言うのも、分かるよ。だから……このまま私、行くね。お姉ちゃんのこと、恨まない」

その言葉で、涼宮啓介が一気に爆発した。

啓介は病室を飛び出すと、涼宮寧音の腕を乱暴に掴み、ぐいっと引きずり込む。

そしてベッドの前へ乱暴に放り投げるように押しやった。

「涼宮寧音! 遥香はここまで弱ってんのに、まだお前のことを気にしてるんだぞ! それなのに逃げる気か? 良心なんて、最初から持ち合わせてないってわけか!」

寧音は突き飛ばされた拍子に膝をベッドのフレームにぶつけ、「……っ」と息を詰める。

「認められたいんだろ? 涼宮家の一員になりたいんだろ?」

啓介は床を指さし、顎でしゃくる。

「今すぐ土下座して遥香に謝れ。それから採血室へ行って血を抜け。チャンスはやる!」

寧音はベッドの柵に手を添え、ゆっくりと体勢を立て直した。

横柄に命令する啓介を見上げ、口元に冷たい笑みが浮かぶ。

「あなたたちに認められて、涼宮家に馴染むことって……そんなに『いいこと』なの?」

それから、淡々と続ける。

「それに、仮病の人にどうして私が謝らなきゃいけないの」

「寧音……」

江口辰木の目に失望がにじみ、声には露骨な嫌悪が混じった。

「お前、どうしてそんなに自分勝手になった? 前は馬鹿でも、少なくとも優しさはあったのに。採血が嫌だからって遥香を貶めるなんて」

一拍置いて、辰木は見下すような口調に変わる。

「遥香に謝って、医者に協力しろ。そうしないなら婚約は破棄だ。見殺しにする女なんて、俺は娶らない」

それでも、寧音の表情は動かなかった。

前世の彼女は、この婚約を守るために塵みたいに頭を下げた。

二度と、同じ道は踏まない。

「いいよ」

寧音は指輪を外し、皆の前でゴミ箱へ落とした。カツン、と乾いた音がする。

「江口社長。今日から私たちは無関係。ほかの女に夢中な婚約者なんて……汚いからいらない」

「……お前っ」辰木が言葉を失う。

自分に命を預けるように執着していたはずの寧音が、ここまであっさり頷くなんて。

しかも、ここまで言うなんて。

――まだ嫉妬してるのか?

涼宮遥香も呆然とした。泣き声がぴたりと止まる。

そして慌てたふりをして言う。

「お姉ちゃん、私のせいで辰木と喧嘩しないで……私、平気だよ。お願い、私のせいで婚約を破棄しないで……」

「遥香、もう演技はいい」

寧音は遮り、冷たい視線で室内を見渡した。

「涼宮家には戻らない。江口辰木もいらない。今日から私とあなたたちは、他人。二度と私の人生に関わらないで」

そう言い捨て、踵を返す。迷いのない足取りで出ていこうとした。

引き留める者がいないのを見て、遥香の瞳の奥に一瞬、得意げな色が走る。だがすぐ、不安がそれを塗り潰した。

遥香は勢いよく布団を跳ね上げた。動きが荒すぎて、手の甲の点滴針がぶつりと抜ける。ぷつぷつと血が滲んだ。

「お姉ちゃん! 行かないで、全部私のせい……!」

ふらつきながらベッドを降り、よろけた身体がちょうど江口辰木の胸に倒れ込む。

遥香は蒼白い顔を見上げ、涙をぽろぽろ落とした。

「辰木、止めて……お姉ちゃん、外で一人じゃ生きていけないよ。お姉ちゃんが気が済むなら、私、もう治療なんてしない。採血室に行って……お姉ちゃんに返すから……!」

その健気な「弱さ」が、部屋の男たちの怒りに火をつけた。

「涼宮寧音、止まれ!」

涼宮啓介が大股で出て、扉の前に立ちはだかる。

顔には殺気が張りつき、こめかみの血管が浮いていた。

「遥香はお前のために、自分の身体まで捨てようとしてるんだぞ。それでも出ていくのか。お前の血は冷たいのか!」

辰木は腕の中で震える遥香を見下ろし、抱き寄せる力を強めた。

寧音の取りつく島もない態度が、彼の苛立ちを限界まで押し上げる。

「寧音、いい加減にしろ」

低い声。どこか恵んでやるような調子。

「さっきの婚約破棄の狂言を取り消せ。遥香に謝れ。今日のことはなかったことにしてやる。皆の我慢が尽きたら終わりだぞ。そのとき泣きついても、涼宮家にも江口家にも、お前の居場所はない」

寧音は足を止め、乾いた自嘲を口元に刻んだ。

これが、前世で宝物みたいに抱え込んだ家族と、愛した男。

傷口を裂いて見せても、返ってくるのは「騒ぐな」の一言。注目を引くための芝居だと決めつける。

寧音はゆっくり振り返り、怒りに歪んだ顔をひとつずつ見渡した。

そして、ずっと黙っていた涼宮卓実へ視線を落とす。

「卓実兄さんも、私が残って謝って……歩く輸血パックを続けるべきだと思う?」

前世。婚約パーティーの一週間前。寧音は偶然、卓実の手紙を目にした。

遥香への想いだと思い込んだ。けれど――宛名は、自分だった。

卓実は、自分を好きだった。

なら、他の連中とは違うかもしれない。そう思ってしまった。

呼ばれた卓実は眉をひそめ、断定するように言った。

「涼宮家が育てたんだ。恩を返せ。遥香が必要としてる。どこにも行くな」

その瞬間、寧音の胸の奥がすうっと冷えた。

――期待した自分が馬鹿だった。

涼宮家の人間に、まだ何かを望むべきじゃなかった。

寧音はもう言い返さない。代わりに、カードを一枚取り出した。

大学時代、デザインの仕事を請け負い、こつこつ貯めた金だ。

「ここに200万入ってる」

淡々と差し出す。

「涼宮家の半年分の出費には届かないかもしれない。でも、私の命を買い取るには十分。十五年分の血は……どぶに捨てたつもりで」

「寧音、そんなことしたらお母さんが傷つくわ!」

涼宮佳子が手を伸ばした。

だが寧音は素早く身を引き、その手を空振りさせる。

「お母さん」

寧音は静かに言う。

「そう呼ぶのはこれが最後。今日から、私たちは赤の他人」

言い終えると、扉口で固まっていた啓介を押し退け、まっすぐ病室を出ていった。

病室の中に、妙な沈黙が落ちる。

涼宮遥香は顔を覆って泣き崩れ、震える声で言った。

「私のせいだよね……お姉ちゃん、絶対に私を恨んでる……戻ってこなかったらどうしよう……」

「戻らない?」

啓介が唾を吐き捨て、鼻で笑う。

「あいつにできるわけねぇ。そんな金、何の足しになる。見てろよ。涼宮家のお嬢様って肩書きがなくなったら、三日も保たない。どうせ泣きながら戻ってきて、許してくれって土下座する」

江口辰木も小さく頷き、同意を示した。

けれど、床に残されたカードへ視線が滑った瞬間、胸の奥が妙にすかすかした。

今まで一度も感じたことのない、手綱が外れるような感覚。ひどく不快だった。

「辰木……」

遥香が怯えたように、そっと彼の袖を引く。

辰木は我に返り、すぐに表情を柔らかくして彼女の髪を撫でた。

「心配するな。あいつは俺がピンクダイヤモンドをお前に贈ったことで拗ねてるだけだ。こんなやり方で気を引こうとしてる。外で痛い目を見れば、誰が頼りか分かる」

その言葉に、遥香の瞳の奥を暗い光がよぎった。

さっきの寧音の目は、冷え切っていて、見知らぬものみたいだった。

いつも影みたいに後ろをついて回り、びくびくしていた寧音と――同じ人間なのか。

涼宮佳子は動悸を落ち着かせるように胸を押さえ、言い切った。

「啓介の言う通りよ。あの子は世の中の辛さを知らないだけ。誰も連絡しないで。お金も渡さない。涼宮家を離れて、いつまで強がっていられるか見ものだわ」

彼らにとって、寧音の絶縁はただの家出だった。

涼宮家に十五年も寄りかかってきた、自力では立てない飾り人形が――自分で根を断ち切れるはずがない、と。

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