第5章 『涅槃』

そうは言っても、涼宮佳子はつい小言を添えた。

「啓介。寧音って子は意地っ張りなんだから、扱いは優しくしなきゃだめよ。自分が悪かったって分かって戻ってきたら、あなたも寧音に当たる癖を直しなさい。そんなことしてたら、ますます遠ざかるだけよ」

口ではたしなめながら、佳子の胸の奥では名もない苛立ちがぼうぼうと燃え上がっていた。

十五年も飼ってやった犬が、今さら飼い主に牙を剥くだけじゃない。噛みつこうとしている――。

涼宮啓介は怒りに任せて吐き捨てた。

「うちの血で生かしてやってる寄生虫が、何様だよ。身の程を知れ」

空気が微妙にひりついたのを察し、涼宮遥香がか細い声で口を開く。

「啓介兄さん……私、来週卒業制作の提出なんだけど、前に用意してた案、どうしても納得いかなくて。今、体調も悪いし、ぜんぜん浮かばないの……もし卒業できなかったら、どうしよう」

啓介は眉間に皺を寄せた。だが次の瞬間、何かを思いついたように目が光る。

「何を悩む必要がある?」啓介は鼻で笑った。「この前、涼宮寧音がデザイン画を山ほど描いてたぞ。派手でごちゃごちゃしてたけど、悪くはなかった。あいつは涼宮家が飼ってるようなもんだろ。あいつのものを遥香が使うのなんて、当然じゃねぇか」

佳子の視線がわずかに揺れた。

寧音に才能があることは、佳子だって知っている。あのとき自分が止めさえしなければ、寧音はとっくに奨学金を取って海外へ行っていたはずだった。

佳子はわざとらしく咳払いをして、困ったふうに言う。

「でも、それはちょっと……。寧音、まだ怒ってるでしょうし。拒まれたら……」

「拒む?」啓介が苛立たしげに遮った。「あいつ、羽が生えたつもりで飛び立とうとしてるけどな、育ててやった金の話はまだしてねぇんだ。使わせてやるのはこっちが情けをかけてるだけだろ。分からねぇなら、吐き出させる方法はいくらでもある」

「啓介兄さん、落ち着いて!」遥香が慌てて言った。

目尻が赤くなり、涙がまた溜まっていく。

「お姉ちゃん、今は気が立ってるから……デザイン画に手を出したら、私のこと恨むよ……。全部、私が悪い。卒業制作のことなんて言わなきゃよかった……」

そう言いながら、遥香はおずおずと江口辰木を見る。

「辰木……啓介兄さんを、止めてくれない?」

頼りなく縋るような遥香の姿に、辰木の胸がきゅっと締めつけられた。

人の心血を奪うなんて、みっともない――頭では分かっている。けれど、遥香の青白い顔を見た途端、その迷いがぐらりと揺らいだ。

涼宮寧音は今まで、彼を見る目に好意と怯えを滲ませていたのに、今日は氷みたいに冷たかった。

遥香にピンクダイヤモンドを贈っただけで?

なぜだ。

この十五年、涼宮家は衣食住を与えてきた。遥香のために少し血を分けるくらい、何が問題なんだ。

それに婚約者として、辰木は寧音を放っておいた覚えもない。勝手に拗ねる資格がどこにある?

世界中に裏切られたみたいな顔をする資格が、どこにある――!

そう思った瞬間、胸の奥に残っていた違和感はすっと消えた。

寧音は遥香に返すべきだ。遥香の体調が悪いなら、このデザイン画は寧音が差し出すべきだ。

辰木は手のひらで遥香の背をとんとんと軽く叩き、内側で暴れかけた妙な衝動を押し込める。

「遥香。君は治療に専念していい」

辰木が遥香の側についたのを見て、啓介の表情は少しだけ和らいだ。

寧音の婚約者が遥香を庇うことに、啓介は何の疑問も抱かない。むしろ、遥香を無条件で支えるのが当然だと信じている。

「もし涼宮寧音が先に家に戻って、デザイン画を持ち出したらどうする?」啓介が問うた。

寡黙だった涼宮卓実が、そこで口を開いた。

「逃げられない」

その一言で、病室にいる全員の視線が卓実へ集まる。

卓実は表情の読めない顔のまま言った。

「K市であいつに身寄りはない。行く場所なんてない。家の鍵を替えればいい。中の物を取りたきゃ、こっちに頭を下げるしかなくなる」

啓介の目がぱっと輝く。

そうだ。どうして忘れていた?

啓介はようやく笑みを浮かべた。

「さすが卓実。今すぐ戻って、屋敷の鍵を全部替えてやる。骨があるってんなら見せてみろよ。家に入れなきゃ、あいつの大事な図面とやらも持ち出せねぇだろ」

啓介は嗤うように続ける。

「そのときは玄関先で土下座させる。3時間は跪かせないと、絶対入れてやらねぇ」

遥香がタイミングよく口を挟む。

「それは……よくないんじゃない? お姉ちゃん、だって……」

「遥香、お前は優しすぎる」啓介が遮った。「ああいう恩知らずに情けは無用だ。自業自得だろ」

遥香は俯き、誰にも見えない角度で口元をわずかに歪めた。

涼宮寧音。涼宮家を出たところで、何が変わる?

あなたのものは、結局ぜんぶ私が奪う。

……

涼宮寧音が涼宮家へ戻ったのは、夕方になってからだった。

まっすぐ二階へ上がり、自室へ入る。

必死に溶け込もうとしていたあの頃が嘘みたいに思える。ここは家じゃない。自分を閉じ込める檻だったのだと、ようやく分かった。

荷物を確認してみると、まともに片づける物などほとんどなかった。

少なすぎる。あまりにも。

部屋にあるのは、数着の服と、江口辰木が気まぐれに寄越した高価なだけの贈り物。

そして何より――ベッドの下に隠した木箱。

中には、涼宮家の人間に見つけたくない服飾のデザイン画が入っている。

確か、卒業制作の提出までもう数日。

前世の自分は「家族なんだから」と縛られ、この心血をすべて遥香へ差し出した。それは遥香がデザイン界へ踏み出すための踏み台になった。

今世は、絶対に触れさせない。

寧音は木箱を引きずり出し、スーツケースへ詰めようとした――そのとき、スマホがぶるっと震えた。

親友の千秋からだ。十数件、立て続けに音声が届いている。

寧音は一つ目を再生した。

「寧音、午後に電話したのに何で電源切ってたの? 江口辰木ってクズ男、ちゃんと別れた?」

「いい? 絶対に情に流されないで。あいつ何度もあのぶりっ子の妹のためにあんたに当たり散らしてたじゃん。今度は指輪まで贈ってさ。捨てない理由がどこにあるの」

「……で、ここから本題。私が送ったリンク見て! 国際ファッションデザインコンテスト『オーラ』、募集始まった! 今年のテーマは『涅槃』だって。主催が金持ちでさ、3位でも賞金100万! 早く応募しなよ。あんたなら優勝して、あいつらの目ぇ潰せるから!」

涅槃。

寧音はその二文字を見つめ、じわりと目の奥が熱くなった。

一度死んだ自分が、こうして生きている。まさに涅槃そのものだ。

千秋の言う通り、今の自分に必要なのは金だ。

二度分の経験がある。デザインへの自信は揺るがない。最低でも3位は狙える。

寧音は応募ページを開き、ためらいなく個人情報を入力して送信した。

送信した直後、唐突に着信音が鳴る。

画面に表示された名前は――涼宮啓介。

本当は出たくない。だが啓介の性格なら、無視すれば何度でもかけてくるだろう。寧音は指を滑らせて通話に出た。

こちらが声を出す前に、受話口から当たり前のような命令が飛んできた。

「涼宮寧音。今どこにいようが関係ねぇ。前に描いたデザイン画、全部病院に持って来い。遥香の卒業制作に使う」

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