第6章 まるで別人に変わったみたいだ
涼宮寧音は、思わず乾いた笑いを漏らした。声には氷みたいな冷たさが混じる。
「涼宮家の次男様って、面の皮が厚いなんてレベルじゃないわね。一体どんな神経してたらそんなこと言えるわけ? 私の物を、どうしてあなたたちが好き勝手に持っていけるの」
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇ!」涼宮啓介が一気に苛立ちを爆発させた。「涼宮家が15年も養ってやったんだぞ。いいか、調子に乗るな。顔立ててやってるうちに従え。じゃないと泣きを見るのはお前だ!」
寧音の瞳がさらに冷える。彼女はくつりと笑い、気だるげな声で、しかし露骨な軽蔑を滲ませた。
「そう。じゃあ……楽しみにしてる」
電話の向こうが一瞬、しんと静まる。次いで、啓介の怒鳴り声が飛んできた。
「寧音、カッコつけんな! お前、身につけてるもの全部涼宮家の金だろ! 遥香が設計図を必要としてるんだ。なんで出さねぇ!」
「涼宮家次男様、勘違いしてる」寧音の声は揺れない。「あの図面は、私が何度も徹夜して描いたもの。涼宮家とは一円の関係もない。それから、今夜ここを出る。涼宮家にもらったものは……一つも持っていかない」
「てめぇ……!」啓介は怒りで言葉が詰まったが、すぐに吐き捨てるように言った。「いい。だったら涼宮家からもらったブランドのバッグも宝飾品も、絶対に持ってくなよ! 今日の午後、お前が勝手に消えたせいで遥香はずっと自分を責めてんだ。まだ良心が残ってるなら、今すぐ病院に来て遥香に謝れ。それから設計図の署名を遥香の名前にしろ。そうすりゃ、全部なかったことにしてやる」
当然のように「良心」を盾に押しつけてくるその言葉に、寧音の瞳の奥へ嘲りがゆっくり滲んだ。
前の人生の自分は、こんな「家族」だの「良心」だのに縛られ続けた。最後は、落ちても誰にも見向きもされない——そんな結末。
「自分で描く力もないくせに、都合のいいときだけ私を利用するの?」寧音は淡々と言う。「残念だけど、遥香には一ミリも貸さない」
「寧音、後悔すんなよ!」啓介が脅すように唸った。「俺が家に戻るまでに設計図を出さねぇなら、この先一生、涼宮家の敷居はまたがせねぇ!」
「涼宮啓介、私は待たない」寧音は冷ややかに言い切った。「涼宮夫人と遥香に伝えて。今夜、涼宮家から出ていく。これから先、涼宮家の金持ちごっこには興味ないし、あんたたちの薄汚い揉め事で私を吐き気させないで」
啓介が一拍、言葉を失ったあと、鼻で笑った。
「いいねぇ、出てけよ。K市で、お前の小銭が何日もつか見ものだわ。どうせそのうち尻尾巻いて戻ってきて、玄関で土下座して開けてくださいって泣くんだろ?」
「じゃあ、その扉——溶接して塞いどいて。絶対に開けないで」
寧音は言い終えると、相手に喚く隙すら与えない。指先をすっと滑らせて通話を切り、涼宮啓介の番号をそのままブロックした。
一連の動作は、息をするみたいに淀みがなかった。
電話の向こうで、啓介は耳に残るツーツー音に数秒固まり、ようやく状況を理解した。
——切られた。
涼宮寧音に、俺が。
啓介は瞬時に顔を真っ赤にし、歯ぎしりした。
「……反抗期かよ、あの女!」
涼宮佳子が、スマホを握りしめたまま殺気立つ啓介を見て眉を寄せる。
「どうしたの? 寧音が、渡さないって?」
啓介は怒りで笑うような声を出した。
「今夜出ていくんだとよ。俺たちに『気持ち悪いから近寄るな』みたいなこと言って、挙げ句『扉は溶接しとけ、二度と開けるな』だとさ!」
そして啓介は、寧音の言葉を都合よく膨らませながら一通りまくし立てた。
佳子の顔がすっと沈む。
今日の寧音——まるで別人だ。
「啓介兄さん、そんなに怒らないで……お姉ちゃん、きっと言い過ぎただけだよ……」涼宮遥香が下唇を噛み、しおらしく目を伏せる。委屈と自責を混ぜた声で言った。「私が悪いの。体が弱いせいで、お姉ちゃんに無理させて……辰木、どうしよう。お姉ちゃん、もう私のこと嫌いになっちゃったかな……」
そう言いながら、遥香はふわりと江口辰木へ身体を預けた。触れれば壊れそうな儚さで。
辰木は彼女の肩を抱き寄せ、胸の内で涼宮寧音への苛立ちをまた一段積み上げる。
謝って、図面を数枚渡す。それだけの話だろう。なのに「出ていく」だの「縁を切る」だの、騒ぎ立てるなんて。
最近、本当に聞き分けがない。
こんな小細工で注目を集めたいのか?
そんなことをすればするほど、嫌われるだけだ。
「考えすぎるな。ただの意地だ」辰木は遥香を落ち着かせるように優しく言い、しかしその言葉は皆へ向けられていた。「K市で頼れる人間もいないし、カードも置いていった。手持ちなんてたかが知れてる。外で壁にぶつかって、痛い目を見れば……涼宮家のありがたさが分かるさ」
「その通りだ」啓介が鼻を鳴らす。「3日もすりゃ泣きついて戻ってくる。そしたら設計図だって、どうせ大人しく差し出すだろ」
佳子の瞳に、計算の光が一瞬だけ走った。
「いいわ、行かせなさい」彼女は施しのような寛容さで言う。「転ばないと痛みは分からないもの。私たちは育ててきた。やるべきことはやった。社会ってものを少し味わえばいいのよ。ただ……遥香の卒業制作が……」
「母さん、心配いらない」涼宮卓実が淡々と言った。「もう鍵屋を向かわせた。涼宮寧音が戻りたくなっても、新しい鍵は渡さない。設計図を出したら渡す。それだけだ」
その一言で、場の空気が完全に落ち着く。
遥香は伏せたまつげの下で、こっそりと笑った。
――そして同じ頃。
涼宮寧音はキャリーケースを引き、階段を降りていた。
階下のリビングでは、鍵の交換を終えた業者が工具箱を片付け、ちょうど帰るところだった。寧音の姿を見て、彼は一瞬きょとんとする。
寧音は何事もなかったかのようにそのまま玄関へ向かい、扉を開けて外へ出た。
夜風がひんやりと頬を撫で、髪の先をさらう。
寧音は道端でタクシーを止めると、千秋の住所を告げた。
車が走り出し、背後の豪邸は遠ざかっていく。あの15年の茶番ごと、夜の闇に置き去りにされていった。
……
30分後。
チャイムが鳴り、千秋が扉を開ける。そこにキャリーケースを引いた寧音が立っているのを見るや否や、彼女は何も言わず寧音の腕を掴んで部屋へ引っ張り込み、ぎゅっと抱きしめた。
「寧音! やっと目が覚めたんだね。前から言ってたじゃん、あの一家、ろくでもないって。離れたほうが絶対幸せになる!」千秋は憤慨しながら寧音を座らせる。「あのクズ男、また何か言った? どうせまた洗脳みたいなことしてきたんでしょ」
「もういいの」寧音は千秋の体温に触れて、胸の疲れが少しほどけていくのを感じた。薄く笑う。「千秋、しばらく……お世話になるね」
「何が『お世話』よ。好きなだけ住めばいい」千秋は気前よく言い切り、それからぱっと顔を輝かせた。「そうだ。『オーラ』のコンテスト、エントリーした?」
「したよ」
「最高!」千秋は興奮して膝を叩く。「行こ。機材、全部用意してある。目の節穴どもに見せつけてやろうよ。何が天才かって!」
そう言って千秋は寧音の手を引き、作業部屋へ通した。
最新型のPC。高精度の液タブ。壁際にはプロ用のボディがずらりと並び、小さな服飾デザインスタジオそのものだった。
「どう? 私、いい仕事したでしょ」千秋は得意げに顎を上げ、褒めてほしそうに言う。「このPC、めちゃくちゃ高かったんだから。動作も爆速で一切カクつかないし、ソフトも全部最新版。絶対使いやすいって!」
寧音の目の奥が、また熱くなる。
涼宮家での15年。自分のアトリエなんて一度も与えられなかった。寝室の隅っこの、小さな机の上でしか夢を追えなかったのに。
血のつながりもない千秋は、何も言わずに——彼女のためだけの場所を、すべて整えてくれていた。
