第7章 アカウントとパスワードの誤り

「千秋……」

涼宮寧音は喉の奥がきゅっと締まり、言いたいことが山ほどあるのに、全部胸の内でつかえてしまう。

「はいはい、しんみりしたことはナシ」

千秋はそんな顔をされるのが苦手なのか、ぷにっと彼女の頬をつまんだ。

「今、腹ん中に溜め込んでるでしょ。ちょうどいいじゃん。その怒り、ぜーんぶ図面にぶつけな」

真剣な目のまま、千秋は続ける。

「安心してデザインして。キッチンに好きなもの用意しといたから。眠くなったら客室で寝ていいよ。シーツもカバーも新品に替えといた」

少し間を置いて、肩をぽん、と叩く。

「じゃ、私は退散。邪魔しない。何かあったらいつでも呼んで」

言い終えると、千秋は迷いなく扉を閉めて出ていった。残された空間は、まるごと涼宮寧音のために。

涼宮寧音はデスクの前に腰を下ろした。高鳴る心臓に引っ張られるように、肩がかすかに震える。

『涅槃』。

その言葉の重みを、彼女ほど知っている者はいない。

涼宮遥香の偽善の仮面を自分の手で引き裂く。涼宮家と江口辰木に、やったことの代償を払わせる。

すべては――このコンテストから。

涼宮寧音はペンを取り、画用紙を広げた。

頭の中には、すでに完成形がある。

時間が流れ、夜の色は濃さをほどき、空が白み始める。

こり固まった首を、涼宮寧音はゆっくり回した。

紙の上には、黒を基調にした一着のドレス。

スカートは幾重にも重なる黒いオーガンジーで、焼け焦げたあとの残骸のような崩れを作り、縁には金糸の紋様が走る。

圧巻だったのは背中だ。

大きく開いた背面の抜きに、細かな赤いクリスタルと黒曜石を連ねて描かれた、鳳凰の翼。肩甲骨のあたりから、ふわりと広がっていく。

華やかで、妖しい。

壊れかけたものがなお立ち上がる――そんな、決然とした美しさ。

涼宮寧音はデザイン画、レンダリング、コンセプトをまとめ、ひとつのデータに整えた。

確認を終えると『オーラ』コンテスト公式サイトへ入り、一次審査の提出フォームを開く。

指先が「提出」のボタンの上で止まる。

――迷いはなかった。

カチッ。

直後、画面に表示される。

「作品の提出が完了しました。ご健闘をお祈りいたします」

涼宮寧音は長く息を吐いた。

胸の奥に沈殿していた重さと疲れが、その瞬間、ようやく流れ出していく。

夜が明ける。

彼女の人生も。

……

三日後、涼宮寧音の元へ『オーラ』コンテストからメールが届いた。

「出場者各位 おめでとうございます。あなたの一次審査作品は二次審査へ進出しました」

スマホを握る指に力が入り、関節が白くなる。

胸にこびりついていた鬱々が、少しだけ晴れた。

やってみせた。

再生へ踏み出す、第一歩。

同じころ、伏見グループ。

会議室の巨大な高精細スクリーンに映るのは、一枚のデザイン画。

「この『鳳凰――涅槃』、発想が見事だ。オーガンジーで焼け落ちた後の『崩れ』を表現し、金糸とクリスタルで新生の絢爛を立ち上げている。まさに神がかりだよ」

審査員席の中央、森川が惜しみない賛辞を口にする。

隣の審査員は、上座の男の顔色をうかがいながら言葉を選んだ。

「確かに良い。ただ、コンセプトが少々難解で……市場に受け入れられるかは、微妙なところかと」

上座の男は葉巻を指に挟み、彫りの深い顔立ちに冷えた圧をまとっていた。視線は、画面の翼から離れない。

しばしの沈黙ののち、薄い唇が気だるげに動く。

「面白い」

森川がほっと息をつく一方、異議を挟んだ審査員は血の気を失った。

伏見盛重は立ち上がり、袖口を整える。視線はなおもスクリーンに据えたまま。

「北島大輝。この作品のデザイナーを調べろ」

「はい、伏見社長」

命じると、伏見盛重は長い脚で会議室を出ていった。

……

K市芸術学院。教授室。

「涼宮遥香、来週は卒業制作の中間審査だ。初稿はどうした」

指導教員の声は厳しい。

「クラスで提出していないのは君だけだぞ。卒業する気はあるのか」

「すみません、先生……」

涼宮遥香は無垢を装い、甘く柔らかな声を落とす。

「最近、体調が悪くて。二日前まで入院していて……遅れてしまいました」

体が弱いことも、涼宮家の力も知っている指導教員は、それ以上追及できず手を振った。

「遅くとも来週の月曜までだ。それ以上は私も助けられない」

涼宮遥香は小さな太陽みたいに、ぱっと明るい笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、先生! すぐに仕上げます!」

――だが、部屋を出た瞬間。

その笑顔から感謝は消え、苛立ちと怨毒だけが残る。

全部、涼宮寧音のせいだ。

寧音がデザイン画を描いてくれさえすれば、あんなふうに叱られずに済んだのに。

唇を噛み、ぎり、と歯を食いしばった、そのとき。

横を歩く学生二人の会話が耳に入った。

「ねえ、聞いた? 『オーラ』の一次結果出たって。うちの大学、結構通ったらしいよ」

「それどころじゃない。今回の最大のダークホース、涼宮寧音ってデザイナーらしい。作品がマジでやばい。公式に上がってた画像見たけど、神デザイン」

もう一人が声を落とす。

「それ、もしかして……うちの大学の涼宮寧音じゃない?」

涼宮遥香の顔色が、すっと変わった。足が止まる。

次の瞬間には、世間知らずの純真な表情を貼りつけ、二人のそばへ寄る。

「今の……お姉ちゃんが、コンテストに出たって話ですか?」

二人は相手が涼宮遥香だと気づき、少し態度を和らげた。

「遥香じゃん。まあ噂だけどさ、一次通過の名簿に『涼宮寧音』って確かにあったよ」

「うん、作品が本当にすごかった。遥香のお姉ちゃん、そんな才能あるのに、今までなんで言わなかったの?」

涼宮遥香は掌を強く握りしめた。爪が肉に食い込みそうだ。

涼宮寧音が、黙って出場して――しかも通過?

どうして。

それは本来、自分が浴びるはずの光だ。

涼宮遥香は無理に口角を上げた。

「お姉ちゃん、昔から控えめなんです。外で言わないでって」

口ではそう言いながら、瞳の奥には嫉妬と算段が濁流みたいに渦巻いている。

二次審査――。

涼宮寧音が、そんな栄誉にふさわしいわけがない。

なら、二次の前に。

寧音が自分から、その栄誉を差し出すように仕向けるしかない。

……

その夜、涼宮寧音は勢いのまま二次審査用のデザイン画を仕上げた。

凝った首を揉みながら水を口に含み、『オーラ』コンテスト公式サイトにアクセスする。提出のためだ。

ID。パスワード。ログイン。

――次の瞬間、警告音が鳴った。

「パスワードが違います。再入力してください」

涼宮寧音は眉をひそめた。打ち間違いだと思い、丁寧に入れ直す。

しかし、再び。

「パスワードが違います。再入力してください」

そんなはずがない。

胸の内に、嫌な予感がじわりと広がる。

何度試しても、結果は同じ。心が底へ沈んだ。

一次のときは問題なかった。

なのに、どうして――二次提出の、このタイミングで。

焦りが喉までせり上がり、主催側に連絡しようとした刹那、スマホの着信音が唐突に鳴り響く。

画面に表示された名前を見て、涼宮寧音の瞳が冷え切った。

アカウントが弾かれた、その直後に。

涼宮宇一からの電話。

――こんな偶然、あるわけがない。

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