第8章 本当に血も涙もない人間ね!

涼宮寧音はスマホの画面を見つめたまま、しばらくしてからようやく通話ボタンを押した。

――さて。涼宮宇一は、この電話で何を言い出すつもりだろう。

「涼宮寧音、デザイン画は準備できたか」

挨拶もなく、見下すような口ぶりで要求してくる。

寧音はすぐに答えなかった。低く問い返す。

「私のアカウントにログインできなくなってる。そっちが細工したの?」

「俺が卓実にやらせた」

さらりと、重いことを軽く認める。悪びれもしない。

涼宮宇一は当然だと言わんばかりに続けた。

「いいか。オーラの復選用デザイン画を俺に送れ。復選は遥香が代わりに出る。あいつには実績が必要なんだ。伏見グループのデザイン部に入るための足がかりになる。涼宮家の将来にもプラスだ」

その言葉に、寧音は奥歯をぎり、と噛みしめた。

アカウントは確かに自分の個人情報で作ったものだ。けれど、涼宮家の厚かましさを思えば、名義を遥香にすり替えるくらい平然とやる。想像するまでもない。

返事を待つ気などないのか、宇一は沈黙を了承と決めつけ、さらに爆弾を投げてきた。

「それと、もう一枚描け。遥香の卒業制作、来週の月曜に審査だ」

寧音は目を閉じた。

頭の中に、いくつもの記憶が濁流みたいに押し寄せる。

血だけじゃない。遥香の課題の手直し、レポートの代筆、締切に追われた徹夜――数え切れない。涼宮家に「姉なんだから当然」と縛られ、自分もそう信じ込んでいた。

結局は、都合のいい無料の労働力だっただけ。

それなのに今は、苦労して勝ち取ったコンテストの枠まで奪う。挙げ句、卒業制作まで自分に描かせるつもりか。

――どうして。

自分は、どこまで踏みにじられればいい。

「涼宮宇一。あのコンテストのデザイン画、私が徹夜で描いたの。アカウントを凍結して、枠を奪って、そのうえ私の手で遥香に渡せって? 私を何だと思ってるの?」

「寧音、口の利き方に気をつけろ」

宇一の声に露骨な苛立ちが混じる。

「涼宮家はお前を十五年養った。食わせて着せて、K市で一番いい芸術学院に通わせた。家のために少しは貢献して当然だろう」

そして、刃のように言い放つ。

「涼宮家はデザイナーを持ち上げることもできるし、潰すこともできる。寧音、身の程をわきまえろ」

寧音のスマホを握る手が震えた。

怖いからじゃない。

怒りが限界を超えて、身体の内側が焼けるようだった。

十五年。血も、骨髄も、幹細胞も――数え切れない「提供」で、ようやく家族としての居場所を買ったつもりでいた。

でも、あの人たちは一度も満足しない。

最後は転落しても、誰ひとり見向きもしなかった。

「長男様が物忘れするなら言っておく」寧音は一語ずつ、釘を打つように言った。「私が涼宮家の門を出た時点で、もう縁は切れてる。十五年の恩を盾にしないで。この十五年で私が何を差し出してきたか――あなたたちのほうがよく知ってるでしょ」

「アカウントは自分で取り戻す。遥香の卒制は関係ない。自分で出せないなら留年すればいい」

少し間を置き、唇の端を冷たく吊り上げる。

「さっき、涼宮家はデザイナーを育てられるって言ったよね。なら、どうして私に代筆させるの?」

電話の向こうが、二秒ほど静まり返った。

宇一が、寧音の変化を飲み込めていないのが伝わってくる。

「涼宮寧音。今日ははっきり言っておく。俺の言うとおりにしないなら、今後K市でお前を雇う会社は一社もなくなる。コンテストも、二度と表に出られないと思え」

ぷつり、と通話が切れた。

耳に残るのは、無機質なツーツー音だけ。

寧音はスマホを机に置いた。まだ指先が震えている。

パソコン画面には、赤いエラーメッセージが点いたまま。ちかちかと視界を刺し、こめかみが脈打つように痛んだ。

十五年、譲り続けた結果がこれだ。相手は増長するばかり。

涼宮家は、圧をかければ自分が折れると思っている。

――ふざけないで。

絶対に、屈しない。

……

涼宮家のリビング。

涼宮宇一が電話を終えた途端、顔色が悪くなったのを見て、ソファにいた数人が互いに視線を交わした。

涼宮佳子が先に口を開く。

「宇一、どうだったの? 寧音は……」

「断った」

宇一が通話内容を簡単に説明する。

佳子の顔がすっと陰った。

「よくそんな真似ができたわね。恩知らず。ほんと、羽が生えたものね」

「だから言っただろ!」

涼宮啓介が荒々しく立ち上がり、足元のゴミ箱を蹴り飛ばす。がしゃん、と中身が床に散らばっても構わない。

「最初から人をやって連れ戻しゃよかったんだ。そうすりゃ出さないなんて言えねぇ!」

部屋の隅、涼宮遥香がそっと宇一の袖を引いた。

「お兄ちゃん……もう、いいよ。やめよう?」

鼻をすすり、泣き声をわずかに滲ませる。その演技は、相変わらず見事だった。

「私がダメだから……体も弱いし、デザインも描けないし。それでお姉ちゃんを怒らせちゃったんだよね。だったら……だったら、もう治療もしない。卒業もしなくていい」

「馬鹿なことを言うな」

宇一は遥香を甘やかす目で見て言った。

「これはお前の将来だけじゃない。涼宮家の体面にも関わる。涼宮寧音が分をわきまえないなら、こっちだって退路を残してやる必要はない」

そう言うなり、宇一はスマホを取り出して、皆の前で番号を押した。

「K市のデザイン会社に全部話を通せ。涼宮寧音を雇う会社は、涼宮家と敵対するってことだ」

電話を切ると、冷ややかに付け加える。

「締め出すだけじゃ足りない。先に評判を潰す」

「でも……」遥香が唇を噛む。「お姉ちゃん、大学じゃずっと有名だったし。もし指導教員に変なこと言いに行ったら……私たちのほうが不利にならない?」

言い切らなくても、意図は十分だった。

佳子と宇一が目配せを交わす。

遥香はうつむき、長いまつ毛で目元を隠す。その奥で何かが蠢いているのに気づかせないまま、立ち上がった。

「お母さん、ちょっと具合悪い。先に部屋に戻るね」

……

深夜。

K市芸術学院の学内掲示板で、ひとつの投稿が一気にトレンド1位へ跳ね上がった。

タイトルは挑発的に踊る。

『「天才少女」の裏側、知られざる真相を暴く』

添付された写真は、涼宮寧音ばかり。

本文には、悪意で整えられた言葉が並んでいた。

「ファッションデザイン学科の涼宮氏。表向きは高潔ぶっているが、私生活では重病の妹を長年いじめてきた。妹のアイデアを盗むだけでなく、病弱な妹を脅し、予選作品の制作まで手伝わせた。家族に見抜かれるとデザイン画を持ち出して家出。妹は卒業制作の提出に間に合わず――」

コメント欄は、遥香を「被害者」に仕立て上げる声で埋まっていく。

「涼宮寧音、普段クールぶってるのに裏でこれとか最悪」

「オーラの作品、作風が違うと思ったら盗作かよ」

「妹、再生不良性貧血なんだろ? 病人いじめるとか心が鉄か?」

「大学は退学にしろ。出場資格も取り消し。こんなクズがデザイン業界に来るな」

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