第3章 亜蘭兄さん、私を信じるか?

トラクターのタイヤはやたらと高くて大きい。宮本亜蘭が我に返り、妹を支えて乗せようとした――その瞬間。

瞬きをひとつしただけで、池田暁月はひょい、と軽々と荷台へ跳び乗っていた。

……どうやったんだ、今の。

走り出してからも、暁月はどこか上の空で遠くを眺めている。風に煽られた長い髪がふわりと舞い、息をのむほど整った横顔が覗いた。

何気ない仕草のひとつひとつに、育ちの良さが滲む――そんな美しさ。

「田舎に帰るんじゃないの?」

ルートが違うことに気づいた暁月の視線が、探るように亜蘭へ落ちる。

亜蘭が答えようとしたところで、スマホが鳴った。通話を取ると、声の端に落胆が混じる。

「……探し続けろ。いくらでも出す。長寿丸を必ず手に入れろ」

長寿丸――名の通り、延命をうたう丸薬だ。心臓や脳の保護と治療に抜群の効果があるとされ、瀕死を救ったという噂が何度も出回っている。

誰もが欲しがる神薬。だが薬材は希少で製法も厄介、値が張る以前に、そもそも入手が困難だった。

宮本家が破格の金額を提示して探しているのに、いまだ手がかりなし。

暁月は、薬瓶を忍ばせたポケットを指先でそっと撫でる。そして探るように尋ねた。

「家で、誰か具合悪いの?」

「うちじゃない」

亜蘭は吐息を落とした。

「宮本家と代々付き合いのある家だ。親父の命の恩人でもある。長寿丸が手に入らなきゃ、新井のおじさんは……三カ月ももたない」

眉間に深い皺。苦しげな表情。

暁月はまつ毛を伏せた。

ポケットの中には、長寿丸が丸ごと一瓶。作ろうと思えば、いくらでも増やせる。

ただ――宮本家のために、そこまでやる価値があるのか。

その思考を断ち切るように、再び着信。今度は、低く焦った男の声が飛び込んできた。

「亜蘭、うちの親父が危ない! 俺も戻ってるけど間に合わないかもしれない。事情はお前が一番分かってるだろ……頼む、先に行ってくれ! お前の判断は、俺の判断と同じだ!」

亜蘭の顔つきが一気に引き締まる。

「分かった」

次の瞬間、トラクターがレーシングカーみたいに唸り声を上げた。

狂ったような勢いで、病院へ向かって突っ走る。

同じ頃、池田家。

池田花依は雑誌をぱらぱらとめくっていて、ふと「宮本家」――国内屈指の大富豪の特集ページに目を留めた。そこに載っていたのは、宮本家の次男・宮本亜蘭の写真。

花依は目を見開き、震える手で雑誌を池田夫人へ差し出す。

「ママ、この人……今日、お姉ちゃんを迎えに来た男の人に、似てない……?」

池田夫人はぷっと吹き出した。

「馬鹿ね。似てる人なんていくらでもいるわ」

彼女は花依の傷ついた腕を労わるように撫で、甘く言い聞かせる。

「国際的に有名な心脳の名医が講演で来るらしいの。ママが手を回してチケット取ってあげる。弟子入りできたら最高よ」

そして、声を落として念を押す。

「花依、いい? 池田家の希望はあなただけ。池田暁月みたいな貧乏人と、もう関わっちゃだめ。今日中に全部ブロックしなさい。これから先、あの子はうちとは無関係。分かった?」

「……分かった」

花依はどこか上の空で、写真と今日の男の顔を何度も見比べ続ける。

「でも、どうしてこんなに……」

「似てるかどうかなんてどうでもいいの」

池田夫人は冷たく切り捨てた。

「池田暁月には、そんな運命はない。それだけよ」

宮本家は国内どころか、世界の富豪ランキングでも上位に食い込む怪物。

町レベルの金持ちが背伸びしたところで、届く相手じゃない。池田暁月にそんな縁があるはずがない――笑わせる。

花依は、そうだと自分に言い聞かせるように頷いた。

ありえない。絶対に。

十分後。トラクターは病院前で急停車した。

亜蘭は暁月の手首を掴み、特別病棟へ駆け出す。廊下の先、病室前にはすでに人だかりができていて、怒号が飛び交っていた。

「言っただろう! 今すぐ一切の治療をやめろ! 親父は十分生きた! 体面を保って逝かせろ! 金のために人を弄ぶ外道どもが!」

「そうだ! 子どもとして命令する、延命措置を全部止めろ! 逆らうならこの病院、潰してやる!」

医師たちは青ざめ、手も足も出ない。

新井家は国内では宮本家に及ばなくても、海外では金と権力の象徴――桁が違う。

しかも内部は不仲。現当主・新井飛鳥を恐れてはいるが、当人はいま海外。だからこそ、この場の連中は好き放題に暴れられる。

病院側は、どちらにも逆らえない。

亜蘭は交渉のため前へ出たが、話が噛み合う気配すらない。新井家の連中は、今日こそ爺様を「終わらせる」つもりだ。

その隙に暁月は、誰にも気づかれないよう病室へ滑り込んだ。ベッド脇のカルテを一瞥すると、眉がわずかに寄る。

そして迷いなく、長寿丸を一粒、爺様の口へ押し込んだ。

「ちょっと! 何を食べさせたのよ!」

揉めていた女が甲高く叫ぶ。空気がぴたりと凍り、視線が一斉に暁月へ突き刺さった。

澄んだ瞳。けれど、冷えた圧だけが不釣り合いに鋭い。

医師も慌てて駆け寄り、震える声で詰め寄る。

「病状は複雑なんです! 何を飲ませたんですか! 何かあったら責任が取れるんですか! 答えてください!」

家族たちが取り囲み、罵声を浴びせる。

だが暁月は感情の波など意にも介さず、振り返って亜蘭を見た。

彼の態度次第で――救うかどうかを決める。

リウマチ性心臓病。

救えないほどのもの?

暁月は薄く笑った。

「亜蘭兄さん。私のこと、信じる?」

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