第4章 金を払えばいいだけ

「……私のこと、信じるか?」

 池田暁月がそう問いかけたとき、その目は凪いだ水面みたいに静かだった。

 なのに、形のいい桃花眼の目尻だけがふっと吊り上がって、病室の白い光を受けると、言いようのない圧が滲む。

 宮本亜蘭は、一瞬だけ言葉を失った。

 出会ってまだ三十分にもならない「妹」を見つめながら、胸の奥に奇妙な確信がせり上がってくる。

 ――信じていい。

「信じる」

 ほとんど迷いはなかった。

 次の瞬間、甲高い女の声が弾ける。

「宮本亜蘭! 頭に水でも入ったの!? どこの馬の骨とも知れない野良娘が、うちの父に何を食べさせたかも分からないのよ。それで信じるですって? 父に何かあったら、あんたが責任取れるの!?」

 叫んだのは新井怜。新井爺様の長女で、五十を過ぎても手入れの行き届いた女だ。だが今は怒りで、作り込んだ化粧が歪んで見える。

「お爺様が変なものを口にしたなら、今すぐ胃洗浄だ!」

 新井家の次男、新井遠也が勢いよく前へ出た。

「医者は何してる? ぼさっとしてないで、すぐ手配しろ!」

 医師たちは顔を見合わせるばかりで動けない。

 ここは国内でも指折りの病院だが、目の前にいる連中は――誰一人、敵に回せない。

 宮本亜蘭はためらいなく歩み寄り、池田暁月の前へ立って盾になった。鋭い視線で、新井家の親族たちをなぎ払う。

「俺の妹だ。こいつがやることは――俺が背負う」

「背負う?」

 新井怜が鼻で笑う。

「宮本亜蘭、あんたが何者よ。お爺様に何かあったら、背負えるわけ?」

「背負えない」

 亜蘭の表情は崩れない。

「それでも、俺は信じる」

 池田暁月が、わずかに横目を向けた。

 虚飾も裏切りも、彼女は見慣れている。表では優しく、裏では平然と刃を向ける人間も。

 それなのに宮本亜蘭は、彼女を何ひとつ知らないまま、全部を賭けた。

 ――面白い。

 なら、手を貸してやる。亜蘭兄さんのために。

「亜蘭兄さん、少しどいて」

 淡々と告げると、宮本亜蘭は戸惑いながらも一歩退いた。いつでも割って入れるよう、体勢だけは崩さない。

 池田暁月は病床へ進み、すらりとした指で爺様の脈に触れた。流れるような動き。何百回、何千回と繰り返してきたかのように。

 病室の空気がすっと静まる。

 突然現れた少女。白いTシャツにジーンズ、長い髪を無造作に下ろしているだけ。なのに、揺るがない落ち着きがあり、誰も軽く見られない。

 眉はきりりとして、少し上がるだけで冷気を帯びる。目尻は僅かに上がり、怠そうな弧を描いているのに、視線は鋭い。

 透けるほど白い肌が、病室の青白い灯りでいっそう儚く見え、そのぶん瞳の黒が深い。溶けない墨をたたえたような闇――涼やかで、刃のようだ。

「救急セット、準備して」

 暁月は顔も上げずに命じた。

「除細動器。アドレナリン。静脈路も確保」

 医師が固まる。

「き、君は……医者なのか?」

「違う」

 暁月が目を上げる。静かすぎる眼差しが、逆に怖い。

「でも今動かないなら、お爺様は本当に助からない」

 医師は歯を食いしばり、看護師へ指示を飛ばした。

 池田暁月はポケットから銀針の包みを取り出すと、一本だけ抜き取る。

 迷いなし。

 速い。

 そして、正確。

 人中へ――トン。

「鍼……!」

 誰かが息を呑む。

「やめて! 今すぐ手を止めなさい!」

 新井怜が金切り声を上げ、掴みかかろうとしたが、宮本亜蘭がさっと遮った。

 池田暁月は意にも介さない。指先が翻り、銀針が次々と落ちていく。速さは常軌を逸しているのに、一刺しごとの精度が狂わない。

 一般的な鍼灸とも違う。一本一本に、何か「癖」のような特殊な捌きが混じっている。

 三本。心電図に微かな変化。

 五本。弱々しい波が、じわりと力を持つ。

 七本。爺様のまぶたが、ぴくりと動いた。

 十本。爺様はゆっくりと目を開け、掠れたうめき声を漏らした。

「……そんな、馬鹿な」

 主治医が目を見開く。

「あり得ない……」

 二十年医者をやってきて、こんな鍼は見たことがない。神秘的で稀少な技術――だが、目の前の結果がそれを黙らせる。

「お爺様が……起きた!」

「起きたぞ!」

 さっきまで延命措置を止めろと騒いでいた連中が、呆然と口を開けたまま固まっている。

 池田暁月はさらに三本打ち、バイタルが落ち着いたことを確認してから、ゆっくりと針を抜いた。

 ほんの十数分前まで、生死の瀬戸際だったはずの爺様が――目を覚ました。

 信じられない、という視線が病室を埋める。

 そのとき、廊下からドタドタと切迫した足音が押し寄せた。

 院長が汗だくで駆け込み、その背後に長身の男が続く。

 二十代後半。黒いコートに、濃い灰色のシャツ。ボタンは喉元まできっちり留められ、首筋の線が冷たく長い。

 切れ長の眼は寒潭のように深く、なのに目尻だけがわずかに上がり、得体の知れない艶を添えていた。

 鋭く、冷たく、そして恐ろしいほど美しい。

 近づきたくなる顔じゃない。遠くから拝むしかなくて、息さえ潜めてしまう顔。

「新井さん」

 院長が深々と頭を下げた。

 新井飛鳥。

 海外新井家の実権者。冷酷な手腕で、数年で勢力を何倍にも拡げたと噂される男だ。爺様危篤の報を受け、帰国したばかり。

 飛鳥は病室の混乱を一瞥し、最後にベッドの爺様へ視線を落とす。眉がわずかに寄った。

「……どういう状況だ」

 低い声。怒っていなくても、場を支配する圧がある。

 さっきまでの剣幕はどこへやら、新井家の親族たちは首をすくめ、誰も口を開かない。新井怜の顔色も青い。

 ――なんで、このタイミングで帰ってくるのよ。

 宮本亜蘭が一歩前へ出る。

「飛鳥。お爺様はもう大丈夫だ。助けたのは俺の妹だ」

 新井飛鳥の視線が、ようやく池田暁月へ移った。

 少女は銀針を片づけているところだった。手つきは雑に見えるほど淡々としていて、さっきの一件が取るに足らない出来事だったかのようだ。

 視線に気づき、暁月が目を上げる。

 目と目が合った。

 新井飛鳥の瞳孔が、わずかに縮む。

 ――この目。

 冷たく、距離がある。なのに、全部を見透かしているみたいな淡さがある。

 山頂の雪。深い水面に映る月光。近いのに、どこか届かない。

 数えきれない目を見てきたが、こんな目はない。心臓が、一拍だけ狂う。

 それ以上に――妙に、懐かしい。どこかで見たような。

 池田暁月は視線を外し、針を包みに収め終えると立ち上がった。そして宮本亜蘭に向けて言う。

「もう行ける」

「待て」

 新井飛鳥が呼び止めた。

 暁月が足を止め、横目で見る。

 飛鳥は平常の無表情に戻っている。だが声にだけ、本人も気づかない温度が混じった。

「助かった。改めて礼に伺う」

「要らない」

 暁月の口調は淡い。

「改めても不要。金でいい」

 新井飛鳥が言葉を失う。

「……?」

 宮本亜蘭も固まった。

「……??」

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