第5章 婚約者
病室に、妙な沈黙が落ちた。
――この少女、自分の前に立っているのが誰だか分かっているのか?
新井家の海外を取り仕切る実力者。どれだけ頭を下げても取り入れない者が山ほどいる相手に、彼女は臆することなく「金」を要求したのだ。
金なんてただの道具だろう。普通なら、もっと別のものを欲しがる場面じゃないのか。
新井飛鳥は数秒、彼女を見つめ――ふっと口元だけを吊り上げた。
笑みは淡い。ほんのわずかに唇が弧を描いただけなのに、氷のように硬かった輪郭が一瞬でほどける。凍った水面の下から、春の光が一筋差し込んだみたいに。
「いい」
彼は静かに言った。
「爺様を救った。礼は弾む」
池田暁月は小さくうなずくと、踵を返して出ていく。迷いがない。潔いほどに。
我に返った宮本亜蘭が慌てて追いかけた。
「暁月、待って!」
病室を出ると、亜蘭は声を落として訊く。
「いつ鍼灸なんて覚えたんだよ? あれ、凄すぎるだろ」
「子どもの頃に先生について、少し」
暁月の声は淡々としていて、まるで天気の話でもしているみたいだった。
亜蘭はさらに聞きたかったが、暁月が語りたくない空気を察して、賢く口をつぐむ。
――この妹、いったいどれだけ秘密を抱えてるんだ。
*
病室では、新井飛鳥がベッド脇に立ち、祖父の穏やかな呼吸を見つめていた。表情は読めない。
「さっきの子を調べろ」
淡々と告げると、背後の秘書が即座に「承知しました」と返す。
院長が恐る恐る口を挟んだ。
「新井さん、先ほどの方がご祖父様に鍼を……念のため、改めて全身の検査を――」
「やれ」
飛鳥は短く頷き、続けて言う。
「監視カメラも回せ。刺鍼の一部始終を見たい」
「かしこまりました」
飛鳥は窓辺へ歩いた。
夜は深く、街の灯りが星の海みたいに瞬いている。
あの目を思い出す。
澄んでいるのに、どこか遠い。作った落ち着きじゃない。荒波を越えてきた者だけが持つ静けさだった。
二十歳そこそこの少女が、どうしてあんな目をする?
秘書がほどなく戻ってくる。
「新井さん、判明しました。池田暁月。池田家の養女ですが、本日、池田家から追い出されたとのこと。迎えに来ていたのは宮本亜蘭で、宮本家が取り違えで失っていた実子――その『娘さん』が池田暁月です」
新井飛鳥が、わずかに眉を上げた。
宮本家の、取り違えられていた娘――。
そして、思い当たる。
宮本家と新井家には確かに婚約があった。昔、新井の祖父が宮本志遠の命を救い、両家で約束したのだ。後に男女が生まれたら姻戚に――と。
新井飛鳥は二十八。宮本家の実の娘は二十。
つまり池田暁月は、名目上の――自分の婚約者。
飛鳥の瞳が、少しだけ深く沈む。
彼はこの婚約に、元々さほど興味がなかった。帰国したら適当な機会を見つけて解消するつもりですらいた。
だが今は、気が変わった。
婚約者が「別人」になった途端、急に解消したくなくなった自分がいる。
面白い女だ。
「続けろ」
飛鳥は言う。
「彼女のことは、全部知りたい」
*
宮本亜蘭は暁月を連れて病院の正面玄関を出た。タクシーでも拾おうとして――入口脇に停めたままのトラクターを思い出し、顔が引きつる。
暁月が横目で見た。
「それで帰ればいい。私は気にしない」
亜蘭はほっとして、それから微妙に眉を寄せる。
――千億の資産を動かす宮本家の次男が、トラクターで妹を迎えに来て、そのまま帰る。バレたら、話題になるどころじゃない。
まあ、いいか。妹が平気なら。
二人はトラクターに乗り込み、ブゥゥン、ブゥゥンと唸らせながら宮本本家へ向かった。
道中、亜蘭は何度も言いかけては飲み込む。
例の婚約の話だ。宮本家と新井家の縁談。新井飛鳥は能力も容姿も家も一級品で、暁月に釣り合わない相手じゃない。
でも――家には、もう一人「妹」がいる。
亜蘭は結局、黙った。
暁月は帰ってきたばかりだ。家の門をくぐる前に婚約なんて言い出したら、逃げられかねない。
――しばらくしてからでいい。
トラクターは一時間ほど走り、古雅な趣の大きな屋敷の前で止まった。
暁月は建物を見上げ、軽く眉を上げる。
池田家が口にしていた「劣悪な環境」を思い出して、改めて眺めた。
どこがスラムだ。
広大な敷地に、白壁と黒瓦。回遊式の庭が上品に連なり、しっとりとした風格がある。門の左右には樹齢百年を超える銀杏が二本、黄金色の葉が地面いっぱいに降り積もっていた。
「着いたぞ」
亜蘭が飛び降りる。
「ここが――俺たちの家だ」
暁月が何か言う前に、屋敷の門が勢いよく開いた。中年の夫婦が駆け出してくる。
手入れの行き届いた女性は、眉目が優しい。暁月を見た瞬間、涙がぽろりと落ちた。
「……私の娘……!」
宮本夫人・新谷若夜が飛び込んできて、暁月を力いっぱい抱きしめる。嗚咽が止まらない。
「つきちゃん……やっと会えた……二十年……二十年よ……!」
宮本家当主・宮本志遠は脇に立ったまま、目を真っ赤にして唇を震わせた。やっと絞り出した言葉は一つだけ。
「……帰ってきてくれて、よかった。本当に……よかった」
暁月は抱きしめられたまま、少しだけ身体を硬くする。
こういう距離の近い触れ合いには慣れていない。池田家で二十年育っても、あの家の奥さんにこんなふうに抱かれたことは一度もなかった。
けれど若夜の腕の中は温かく、ほのかな金木犀の香りがする。なぜか、振りほどく気になれない。
「母さん、泣きすぎ。妹がびっくりするだろ」
亜蘭が横で宥める。
若夜はようやく手を離し、涙を拭いながら暁月を上から下まで見つめた。見れば見るほど嬉しそうだ。
「似てる……本当に似てる。私の若い頃、そのまま」
「おまえと同じで綺麗だ」
志遠がぼそっと付け足す。
若夜が軽く睨み、すぐに暁月の手を引いて屋敷の中へ。
「さあ入って。色々用意してあるの。部屋も整えたから、気に入るか見て」
暁月は促されて歩きながら、屋敷の造りに目を走らせた。
亭と回廊、小橋に流れ。どこも手が入っていて、隙がない。
だが正厅に差しかかった瞬間、彼女の眉がほんのわずかに寄った。
――ちぐはぐだ。
紫檀の椅子には欧風レースの座布。中式の屏風の前に、現代的なガラスのローテーブル。飾り棚の古陶磁の横には、カートゥーン調の置物。
一つ一つは悪くない。だが並ぶと、雑炊みたいに散らかって見える。
暁月には「職業病」があった。
表向きは池田家に育てられた偽りの令嬢。
だが本当の顔は、国際的に名を知られるトップデザイナー――『M』。
調和の取れていない配置が、どうしても気になる。
若夜がその視線に気づいて、気まずそうに笑った。
「これはね……あなたの妹が置いたの。ミックスしたほうが暮らしの温かみが出るって……」
妹。
暁月はその単語を拾ったが、今は深く問わない。
見ていられないなら、直せばいい。
彼女は何食わぬ顔で歩み寄り、ガラスのテーブルを窓際へすっと移す。カートゥーンの置物は飾り棚の空いているマスへ。レースの座布団を外し、隅に置かれていた素色の錦の座布団へ差し替える。
さっさっ、と数手。
正厅の空気が、がらりと変わった。
散らばっていた要素が不思議とまとまり、もの同士が呼吸を合わせる。まるで、最初からそこにあるべき場所へ戻ったかのように。
若夜と志遠が目を合わせ、互いの目に驚きが浮かんだ。
亜蘭は口を開けたまま固まる。
「暁月……おまえ、インテリアまでできるのか?」
