第6章 ボスはどうして宮本家の娘になったのか?
「ついでに」
池田暁月は淡々と言った。
執事の坂東が茶を運んで正厅へ入る。室内の様子が変わっているのを見た瞬間、顔色がわずかに揺れた。
「お嬢様……これは……」
言いかけて、言葉を呑み込む。視線だけが複雑だった。
暁月が戻ってきてから、坂東は呼び方を改めている。
この部屋の飾りつけは、次女様の宮本明珠が自ら手をかけたものだった。
次女様は養女とはいえ、宮本家で十数年暮らし、旦那様と奥様にとても可愛がられてきた。家のことは大抵、彼女の意向が通る。
それを、実の娘が帰ってきた途端に入れ替える。
――これは、波風が立つ。
坂東は口を開きかけたが、旦那様も奥様も何も言わない。結局、言葉を喉の奥へ押し戻した。
新谷若夜が暁月の手を引き、ソファに座らせる。慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「つきちゃん、ひとつ……お母さんから、ちゃんと話しておきたいことがあるの」
暁月は湯気の立つ湯呑みを持ち上げ、静かな顔で頷く。
「どうぞ」
「当時の件なんだけどね。二家の取り違えじゃなくて……三家だったの」
若夜は小さく息を吐いた。
「あなたが生まれた日、同じ病院に産婦さんが三人いたの。私と、あなたを育てた池田奥さん、それから林田という名字の産婦さん」
「三家の赤ちゃんが、全員取り違えられたのよ」
暁月の飲む手が、ぴたりと止まる。
「あなたは私の実の娘なのに、池田家に渡ってしまった。池田家の実の娘、池田花依は林田家へ。じゃあ林田家の娘は――」
若夜は一拍おき、続けた。
「うちに来たの。明珠よ」
暁月は湯呑みを置き、何も言わなかった。
「明珠はうちで十数年暮らしてきたわ。血は繋がっていなくても……私たちは、本当の娘みたいに育ててきたの」
若夜は暁月の目をまっすぐ見て、恐る恐る言う。
「つきちゃん、こんなの……あなたにとって不公平なのは分かってる。あなたこそ私たちの子なのに、二十年も外で……たくさんつらい思いをして。明珠はあなたの場所にいて、あなたのはずだった幸せを――」
「お母さん」
暁月が遮った。
「何が言いたいの?」
若夜の目尻が赤くなる。暁月の手をぎゅっと握り、震える声で言った。
「明珠の実のご両親が……あまりに条件が悪いの。実のお父さんは足が悪くて、田舎で畑をやってる。お母さんは賭け事に溺れて借金まみれで、今どこに身を隠してるかも分からない。もし戻したら……あの子の人生が壊れてしまう」
宮本志遠が低い声で引き取った。
「つきちゃん、君を困らせたいわけじゃない。明珠は十数年うちにいた。情があるのは事実だ。だが、宮本家の血ではない。君こそが宮本家の娘だ。この家のことは、誰を残すかも含めて、君が決めるべきだ」
一度言葉を切り、志遠は誠実に暁月を見た。
「だから父さんは聞きたい。明珠を、このまま宮本家に置いてやってくれないか。もし君が嫌だと言うなら、行き先はこちらで整える。衣食に困らせない。ただ、この家に住まわせはしない」
暁月は数秒、沈黙した。
池田健永が最後に差し出したカード。
池田花依の得意げな顔。
池田奥さんに鼻先を指されて吐き捨てられた「恩知らず」。
そして、宮本亜蘭が迷いなく自分を信じたこと。
若夜の温かな腕の中。
意見を求める時点で、この家はそう悪くない――そう思えた。
「私は構いません」
暁月の声は淡い。
「彼女が残ろうが出ようが、私にはどちらでも」
志遠と若夜は顔を見合わせ、ふっと息をついた。安堵と、痛ましさが滲む。
――この子の淡々とした態度。池田家でどれほど傷つき、冷たさで自分を守る術を覚えたのだろう。
「つきちゃん……ありがとう」
若夜の目がまた赤くなる。
暁月はそれ以上、何も言わなかった。
理解があるからではない。
本当に、気にしていないのだ。
宮本明珠が善人でも悪人でも、暁月にはどうでもいい。
自分の一線を越えさえしなければ、わざわざ争う気も起きない。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
「パパ、ママ、ただいま!」
シャネルのスーツを着た少女が入ってくる。完璧に整えたメイク、柔らかな物腰。
宮本明珠だ。
笑みを浮かべていたが、暁月を見た瞬間――その笑顔が硬直した。
「パパ、ママ……こちらの方は?」
若夜が慌てて手招きする。
「明珠、この子はね……私とあなたのパパの、実の娘よ」
――本当に、見つけてきたの?
明珠の指がきゅっと握り込まれ、爪が掌に食い込む。
彼女は自分の出生を知っていた。
三年前、偶然に宮本家の実子ではないと知り、糸をたぐって池田暁月に辿り着いた。池田家の底まで調べた。
格だけ取り繕った、三流の名門。宮本家とは比べるまでもない。
そのとき明珠は決めた。
絶対に、宮本家に本当の娘を見つけさせない――と。
裏で少し手を入れ、調査を撹乱し続けた。宮本家が暁月に辿り着けないように。
一生、隠し通せると思っていた。
なのに。暁月は戻ってきた。
「明珠、こっちへ」
若夜が笑って招く。
「この子があなたのお姉ちゃん。池田暁月よ」
明珠は深く息を吸い込み、笑顔を貼り直して近づいた。自分から暁月の手を取る。
「お姉ちゃん、やっと帰ってきたのね! ずっと待ってた!」
甘く柔らかな声。熱のこもった眼差し。
誰が見ても、心から姉を歓迎する妹に見えるだろう。
暁月は握られた手へ視線を落とし、口元だけをわずかに上げた。
――面白い。
手は小さく震えている。瞳の奥で悪意がちらりと瞬いた。
それでも笑みは、欠片も崩れない。
「どうも」
暁月は淡々と返した。
明珠は今度は志遠と若夜へ向き直り、目尻を赤くする。
「パパ、ママ……お姉ちゃんが戻ってきたら、私のこと……もう要らないって、言わないよね?」
「馬鹿なこと言わないの」
若夜が胸を痛めたように抱き寄せる。
「あなたは、ずっと私たちの娘よ」
明珠は若夜の胸元に顔を埋め、泣き声を作った。
「怖いの……お姉ちゃんが帰ってきたら、ふたりが私を愛してくれなくなるんじゃないかって……」
「大丈夫、大丈夫よ」
若夜が背中をぽんぽんと撫でる。
志遠も柔らかな表情を見せた。
「明珠。お姉ちゃんはまだ戻ったばかりだ。君が、しっかり支えてやりなさい」
「うん!」
明珠は顔を上げ、涙を拭って、暁月へ眩しい笑顔を向ける。
「お姉ちゃん、お部屋を見に行こう? 私が自分で整えたの。気に入ってくれると思う」
涙を湛えたまま笑う目を見て、暁月の脳裏に池田花依がよぎった。
手口は違う。
花依は陥れて叩き潰す。明珠は引いて見せ、守ってもらう。
けれど本質は同じだ。
――面白い。
暁月が口を開こうとした、その瞬間。
坂東がさっと入ってきた。
「旦那様、奥様。お招きしたデザイン・マスターが到着されました」
志遠の目が輝く。
「すぐ通してくれ!」
そして暁月に向き直り、説明する。
「つきちゃん、君が池田家で服飾デザインを学んでいたと聞いてな。国際的に名の通ったデザイン・マスターを個人指導として招いた。普段は表に出ない方でね、頼み込むのに骨が折れたんだ」
暁月は眉をわずかに上げた。
国際トップクラスのデザイン・マスター?
やがて、羽織を肩に掛けた中年の男が入ってきた。穏やかな物腰、金縁眼鏡。
入室するなり、にこやかに口を開く。
「宮本さん、宮本奥さん。ご高名は――」
言葉が途中で止まった。
池田暁月を見た瞬間、笑みが凍りつく。
目がまん丸に見開かれ、唇が小刻みに震えだす。
――ボスが、どうしてこの家の娘になってるんだ?!
