第8章 邪魔立て

そのデザイン画は、良くも悪くも無難だった。手堅くまとまっている。だが、心を掴むような尖りもない。

――池田暁月の実力も、この程度か。

そう思った者は多かった。

だが、江口一鶴だけは違うものを見ていた。

一見すると平凡。ところが線の流れ、比率の取り方、余白の置き方――どれも異様なほど正確だ。正確すぎるがゆえに、逆に目立たない。

わざと、刃を引っ込めている。

江口の胸の内で言葉が転がった。

――ボス、わざと手を抜いてるな。

宮本明珠はそこまで読み取れない。池田暁月の腕が足りないのだと決めつけ、密かに勝ち誇った。

「お姉さま。私、最近も新しいデザインを描いているんです。今度お持ちしますので、見ていただけます? 少しアドバイスをいただきたくて」

にこやかな声。けれど、言葉の端々に薄い優越が滲んでいる。

実の娘じゃないから何だというのだ。彼女は幼いころから最高の教育を受け、同年代の中でも頭ひとつ抜けた実力だと自負している。

一方の池田暁月は、池田家という小さな場所で学んできただけ。大したものにはならない――そう思っていた。

江口先生に自分のデザインを見せれば、どちらが本当に才能があるか、すぐ分かる。

池田暁月はまぶたすら上げなかった。

明珠が去ったあと、江口一鶴が声を落とす。

「ボス……次女様、どうも……あなたに敵意があるように見えますが」

「分かってる」

池田暁月はデザイン画を一枚めくり、淡々と口にした。

「続けて」

江口はそれ以上の口出しをせず、講義を続けた。

だが内心では思う。ボスの性格からして、宮本明珠が余計なことをすれば、自分で自分の首を絞めるだけだろう、と。

午後。案の定、宮本明珠は自作のデザイン画を持ってきた。

三枚。どれも丁寧に描き込まれ、完成度は高い。

「江口先生。最近の作品です。ご指導いただけますでしょうか」

恭しく差し出しながら、視線の端では池田暁月の反応を探っている。

江口一鶴はざっと目を通し、当たり障りなく頷いた。

「いいですね。構図も配色も整っている。次女様は確かに才能がおありです」

宮本明珠は謙虚そうに笑う。

「過分なお言葉です。まだまだ、お姉さまに学ばないと」

そのまま池田暁月へ向き直る。

「お姉さまはどう思います? 何かアドバイスをいただけますか?」

池田暁月がようやく目を上げ、三枚に視線を落とした。

――三秒。

「比率が崩れてる」

平坦な声。感想ではなく、事実の指摘。

宮本明珠の笑みが固まる。

「……え?」

「三枚目。襟の比率がおかしい」

池田暁月は淡々と続けた。

「左の肩線が右より0.3センチ高い。全体が左に流れる。

一枚目はウエストを絞りすぎ。着たときに皺が出る。

二枚目は袖口のフリルがうるさい。視線の重心を奪ってる」

一息に言い切る。速くも遅くもない。言葉は一本一本、刃物で刻んだように明確だった。

宮本明珠の顔色がわずかに変わる。

見直すと、確かに左の肩線はほんの少しだけ高い。気づけと言われても気づかない程度の差。

ウエストと袖口についても、言われるまで意識したことがなかった。

――どうして、分かったの?

「……お姉さま、さすがですね」

宮本明珠は無理に笑い、声を整えた。

「すぐ直してきます」

書斎を出た瞬間、作り笑いは跡形もなく消えた。

廊下で坂東が通りかかり、彼女の表情に気づいて小声で尋ねる。

「次女様、いかがなさいました?」

宮本明珠は歯を食いしばる。

「池田暁月が、私のデザインに問題があるって」

坂東が眉をひそめた。

「お嬢様、わざとでしょう。次女様を困らせたいんですよ」

宮本明珠は拳を握りしめる。

自分もそう思った。だが――池田暁月が挙げた点は、どれも正しい。正しいからこそ、腹が立つ。胸の奥がざらつく。

坂東が声をさらに落とす。

「次女様、このまま黙って耐えていてはだめです。お嬢様は戻ってきた途端、何から何まで次女様の上に立とうとする。この先、どうなさいます? 旦那様と奥様に、誰が本当に有能か分からせないと」

宮本明珠は深く息を吸い、目の色を変えた。

「……あなたの言う通りね」

口元がゆっくりと吊り上がる。

「パパとママには、ちゃんと見せてあげる」

病室では、祖父の容体が日ごとに持ち直していた。

新井飛鳥はベッド脇に腰を下ろし、血色の戻った祖父の顔を見つめる。鋭い眼差しの奥に、珍しく柔らかさが滲んだ。

「じいさん、具合は?」

「だいぶ良くなった」

新井爺様は枕に背を預け、目の光も強い。数日前までICUで命の瀬戸際にいたとは思えないほどだ。

「あの嬢ちゃんの針は、まったく神業だったな。儂のこの命、あの子が拾ってくれたようなもんだ」

そこでふっと話題を変える。

「ところで、お前と宮本家の娘さんの結婚は、いつやるつもりだ?」

新井飛鳥の眉がわずかに寄る。

「その話は、急ぎません」

「急がないだと?」

新井爺様が目を剥いた。

「お前は今年で28だぞ」

「婚約は解消したい」

淡々とした一言。

新井爺様の顔色が変わった。

「……何だと?」

「その婚約に興味がありません」

新井飛鳥は表情ひとつ動かさず言う。

「引き延ばして相手の時間を奪うくらいなら、早めに解消したほうがいい」

「お前……!」

新井爺様は怒りでベッドを叩いた。

「このバカが! 宮本爺さんには昔、命を救ってもらったんだぞ! 婚約は両家で決めたことだ!」

「自由恋愛の時代です」

新井飛鳥は譲らない。

「政略結婚のやり方はもう古い。それに俺は、宮本家の娘さんと顔も合わせていない。会ったこともない相手と結婚なんて、話にならない」

新井爺様の胸が上下する。怒鳴り返そうとして――ふと、何かを思い出したように顔つきが変わった。

「待て。会ったことがないと言ったな。じゃあ、この前儂を助けた……あの嬢ちゃんは……」

「宮本家の実の娘です。池田暁月」

新井飛鳥がそう口にした瞬間、声の温度がわずかに変わった。

新井爺様が目を瞬く。

「実の娘? じゃあ、お前と婚約してるのは誰だ」

「婚約相手は、宮本家の養女の宮本明珠です」

新井飛鳥は簡潔に説明する。

「当時、病院で取り違えがあったらしい。実の娘は外で二十年。つい最近戻ってきた。宮本家はそれまで明珠を実の娘として育てていたから、両家が想定していた婚約相手も自然と彼女になった」

新井爺様は、古い因縁には深入りしなかった。代わりに、孫の言葉の端に混じった変化を見逃さない。

目を細め、飛鳥をじろりと観察する。

こいつは昔から仏頂面で、誰に対しても近寄るなという顔をしてきた。

それが、いま――あの娘の名を出したとき、目が明らかに違った。

「……気があるのか?」

新井爺様は直球で刺した。

新井飛鳥は一瞬だけ間を置く。

「ありません」

「ない?」

新井爺様は鼻で笑った。

「目が光ってたぞ。それで『ない』だと?」

新井飛鳥は唇を引き結び、答えなかった。

新井爺様は、先ほどのように喜ぶどころか眉を寄せ、重く息を吐いた。

「……こりゃ厄介だな」

枕に背を預け、布団の上を指でとんとんと叩く。顔は苦い。

「婚約は『宮本家の娘』と結んだものだ。実の娘が戻ったなら、本来その話は暁月に移るのが筋になる」

言葉を区切り、苦悩を深める。

「だが、お前が会った途端にその気配を出してどうする。今このタイミングで新井家が宮本家に話を持ちかけたら、向こうは何と思う?」

さらに声が沈む。

「『養女は捨てて実の娘に擦り寄るのか』と見られる。新井家は見境がないと笑われる。宮本爺さんは儂の命の恩人だ。そんな真似はできん」

新井飛鳥は少し黙ってから、結論だけを落とす。

「だから、婚約を解消したいんです」

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