第1章 彼女を排除しなければならない
午後二時、アパートの外から激しくドアを叩く音が響いた。
高橋美桜は絶望して床にへたり込んでいた。まだ幼さの残る小さな顔は真っ青で、震える手で母親の袖を固く掴み、声を震わせながら懇願した。「お母さん、お願いだから、私を突き出さないで!」
棘のある声の婦人は、容赦なくその手を振り払った。「あんたが行かなきゃ、あんたのお姉さんの留学費用は誰が払うって言うの?」
「でも、私もお母さんの娘よ。私にはもう彼氏だっているのに、どうしてお姉さんのために、私に無理をさせるの!」高橋美桜は悔しさを滲ませた。
野村恵子は冷たく笑う。「香織こそが私の本当の娘。あんたなんか道端で拾ってきた私生児にすぎないのよ。あんたを育てたのは、姉さんの生活費の足しにするための持参金稼ぎのためなんだから」
「斎藤和馬みたいな貧乏人にどれだけのお金があるっていうの? 香織を留学させられるなら、鈴木社長の食事に付き合わせるどころか、外でゴミ拾いをさせようが、道路掃除をさせようが、あんたは行かなきゃならないの!」
高橋美桜は全身に衝撃が走った。あまりに膨大な情報量に、それが真実だとは信じられなかった。しかし、これまでの野村恵子の自分に対する仕打ちを思うと、尽きることのない絶望が高橋美桜の心に残っていた唯一の希望を打ち砕いた。
高橋美桜は唇を固く噛みしめる。「今日をもって、私たちは縁を切ります」
彼女はふらつく足取りで玄関へと向かった。
スイートルームの中には、微かな光が差し込んでいた。
高橋美桜の華奢な指がシーツを固く掴み、緊張で白くなっている。食事をするのになぜこんな場所に来なければならないのだろう……。
冷たい気配が鼻先をかすめる。暗闇の中、長身の影が彼女の小柄な体を覆い尽くした。男が生まれながらに持つ強大な威圧感に、高橋美桜は息もできなくなるほど怯えた。
「彼女がお前を行かせたのか?」低く、磁力のある声が不意に頭上から降ってきた。
高橋美桜は体をこわばらせ、震えながら答えた。「はい」
男は軽く笑った。極上ともいえるその声は、しかし、この上なく人を傷つける二文字を口にした。「汚らわしい」
彼の漆黒の瞳は暗闇の中で鋭く無情に光り、口角に浮かんだ弧は少女への怒りを隠そうともしない。まるで怒り狂った猛獣のようだ。掌の氷のような冷たさが高橋美桜を底なしの深淵へと突き落とす……。
水晶のような涙が目尻から滑り落ち、高橋美桜は絶望して目を閉じた……。
どれほどの時が経ったのか、男はようやく立ち去った。
高橋美桜は彼が浴室から出てくるのを待たず、服に着替えてそそくさとその場を後にした。
ホテルを出た途端、鋭い罵声が背後から聞こえてきた。高橋美桜が振り返ると、足早に近づいてきた野村恵子に平手打ちを食らった。
「このクズが、よくも逃げ出そうとしたわね!」野村恵子の声は甲高い。
高橋美桜はジンジンと痛む頬を押さえ、こらえきれずに言い返した。「言われた通りにしたじゃない。これ以上どうしろって言うの?」
「鈴木社長はあんたがホテルにいやしないって言ってたわよ。四時間も待ってすっかりお怒りなの。さっさと上に戻りなさい。さもないと、あんたの脚をへし折ってやるから!」野村恵子は高橋美桜の鼻先を指差して命じた。
高橋美桜は驚愕した。「ありえない。さっき、私はちゃんと……」
「ちゃんと何よ? 鈴木社長は今になってもあんたに会えてないって言うのに、もう会ったとでも嘘をつくつもり!」言葉が途切れると、野村恵子の眼差しが突如として凶暴に変わった……。
彼女は二歩で駆け寄ると高橋美桜の襟首をこじ開けた。鮮やかで目に痛いほどの痕が彼女の肩を覆い尽くしている。野村恵子は怒りで全身を震わせた。「よくもやってくれたわね、高橋美桜! 私に隠れて男と遊びほうけるなんて、恥知らず!」
野村恵子は怒りで顔を歪め、重い平手打ちを高橋美桜の顔面に叩きつけた。「あんたの姉さんが留学する金がないなら、あんたがなんとかしてきなさい。一千万円稼ぐまで、外に出られると思うんじゃないわよ!」
野村恵子は怒り心頭で高橋美桜を高橋家に連れ戻した。
高橋香織は冷たい顔で高橋美桜を部屋に閉じ込め、野村恵子に言った。「お母さん、高橋美桜があんなことをしでかしたんじゃ、私の留学費用はどうなるの?」
野村恵子もこのクズ娘に腹わたが煮えくり返っていたが、高橋香織の悲しげに泣き出しそうな顔を見ると、言った。「香織、安心して。たかが一千万円よ。すぐに医者に連絡して高橋美桜に修復手術をさせるから。お母さんがあなたに辛い思いをさせるわけないじゃない」
「お母さん、大好き」高橋香織は嬉しそうに野村恵子の胸に寄りかかり、悲しげに言った。「でも、外国に留学するのってすごくお金がかかるって聞いたわ。一千万円は一度きりの費用でしょ。お母さんに会いたくても、帰ってくるお金がないかもしれない……」
「それなら高橋美桜に手っ取り早く稼げる仕事を探させるわ。稼いだ金は全部あなたの口座に振り込ませるから」野村恵子は決心した。あの高橋美桜に、可愛い娘の前途を滅茶苦茶にされてたまるものか。
高橋香織はしてやったりと笑みを浮かべた。手っ取り早く稼げる仕事、それがどんな仕事かなんて決まっている。高橋美桜が一度でもその仕事に手を出せば、一生這い上がることなどできず、永遠に汚い泥沼の中から、高みにいる自分を仰ぎ見るしかないのだ!
高橋香織は気分が良くなり、どこでお祝いをしようかと相談していると、慌ただしい足音が母娘の会話を遮った。
数十人の黒服の男たちが、高橋家をぐるりと取り囲んだ。続いて、身なりの良い青年が多くのボディガードに守られながら足早にやって来た。
家の中にいた野村恵子と高橋香織は、その物々しい様子に驚き、恐る恐る尋ねた。「どなたをお探しでしょうか?」
青年は礼儀正しく二人を一瞥し、言った。「失礼ですが、昨夜ホテル・ロイヤルグランド七九七号室でお泊りになったのは、香織様でいらっしゃいますか?」
ホテル・ロイヤルグランドは、まさに鈴木社長が昨夜泊まっていたホテルだ。ただし、彼の部屋は七六七号室だった!
野村恵子は無意識に高橋香織に視線を送り、青年に言った。「人違いです」
田中啓は一冊の学生証を差し出した。「こちらは昨夜、弊社の社長の部屋に忘れられていた学生証です。社長は昨夜、少々飲み過ぎておりまして、人違いを……」彼はそこで言葉を濁した。
高橋香織は、高橋美桜が適当に寝た相手がまさか大社長だったとは思いもよらず、太腿の横に置いた拳を微かに握りしめ、無理に作った笑みを浮かべた。
彼女は学生証を受け取って開くと、情報が不完全で写真も貼られていないのを確認して言った。「それは私のものですわ。ですが、あなたの社長というのは?」
「藤崎蓮です」田中啓の口調には敬服の念がこもっていた。
高橋香織は呆然とし、愕然として尋ねた。「帝国グループの社長、藤崎蓮?」
「はい。社長は他人に借りを作ることをなさいません。昨夜の件につきましては、香織様にご満足いただける落とし前をつけさせていただきます。どうぞ、ご安心してお待ちください」
そう言うと、田中啓はボディガードの一団を引き連れて去って行った。
高橋香織はよろめきながらソファにへたり込んだ。薄い体が微かに震えている。こ、こんなことが……!
野村恵子は娘の顔色が悪いのに気づき、腑に落ちない様子で尋ねた。「帝国グループって何? 聞いたことないけど? すごいの?」
帝国グループの支配者が、すごいという二文字で言い表せるものか。
高橋香織は嫉妬に狂いそうになりながら叫んだ。「藤崎蓮は第一の名門、藤崎家の長男よ。十九歳で帝国グループを創設して、たった五年で蒼天市を商業の帝都に作り変えたのよ!」
先ほどの男の口ぶりからすると、高橋美桜が部屋を間違え、藤崎蓮がその埋め合わせをしようとしているのだろう。それでは、高橋美桜は一気に成り上がってしまうではないか!
駄目だ、絶対に高橋美桜にそんな機会を与えてはならない!
高橋香織は興奮して野村恵子に掴みかかった。「お母さん、絶対に藤崎家の人たちに高橋美桜の存在を知られちゃだめ。彼女を消さなきゃ!」
