第1章
「ああっ——!」
がばりと上体を起こした。激しく波打つ胸が、酸素を求めて喘いでいる。
視界に飛び込んできたのは、黒焦げの廃墟ではない。見慣れた寝室だ。掃き出し窓の向こうには屋敷の薔薇園が広がり、朝の光が床に落ちている。
私は……生きている?
手をかざしてみる。指先に火傷の痕はない。サイドテーブルのカレンダーに目をやれば、そこには『五月十日』とあった。
お父様が暗殺される、一ヶ月前。
そして、私の二十二歳の誕生パーティーで、正式に婚約者を発表する一ヶ月前でもある。
ノックの音が響いた。低く、抑制の効いた音だ。
「中宮お嬢様、起床のお時間です。土屋さんが階下で朝食をお待ちです」
赤山敦司。
その名前が頭に浮かんだ瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。前の人生で、私は彼を空気のように扱い、道具と見なし、憂さ晴らしの対象にしてきた。けれど最期に火の海へ飛び込んでくれたのは、彼だけだったのだ。
「入りなさい」
私は努めて平静を装った。
ドアが開き、赤山が入ってくる。黒のスーツに身を包み、彫りの深い顔には何の感情も浮かんでいない。その瞳は恭順の色を湛えつつもどこか他所他しく、私を直視することさえ憚られるようだった。
「土屋さんが、お嬢様のお好きなクロワッサンをお持ちになりました。それと、いつものカフェのラテも」
業火に焼かれる前の、綺麗なままのその顔を見つめると、目頭が熱くなる。
だが、取り乱してはいけない。
今の赤山にとって、私はただの護衛対象だ。あまりに不自然な振る舞いをすれば彼を怖がらせてしまうし、恵司に怪しまれる恐れもある。
「中宮お嬢様?」
私の異変を察知したのか、赤山は素早くこちらを一瞥し、すぐに視線を伏せた。
「お加減が優れませんか。主治医をお呼びしましょうか」
「必要ないわ」
私は布団を跳ね除けてベッドから降りた。その声は、氷のように冷え切っていた。
「恵司に伝えて。目障りだから帰れ、とね。今日は誰とも会いたくないの。そのパンの匂いだけで吐き気がするわ」
赤山は呆気に取られていた。
無理もない。昨日の私が恵司のためにネクタイを選び、婚約後のハネムーンの行き先を楽しげに語っていたのを覚えているはずだ。恵司の言葉なら何でも信じ、恵司が望めば全てを与えていた私を。
「それは……」
彼は戸惑いを見せる。
「私の言葉が理解できないの?」
鏡の中の自分を見つめ、口角を冷たく吊り上げた。
「今日から、朝一番に土屋恵司の名前を聞かせないでちょうだい。彼が持ってきた物は、全部捨てて」
赤山は困惑しながらも、訓練された本能に従い即座に頭を垂れた。
「承知いたしました、中宮お嬢様」
サイドテーブルの上でスマホが震えた。画面が明るくなり、恵司からのメッセージが表示される。
『寧音、まだ寝てるのかい? 今日は美沙希も来てるんだ。君が持ってるミッドナイトブルーのオートクチュールのドレス、借りたいんだってさ。あとで渡してやってくれよ。いい子だろ』
前の人生で、私は何の迷いもなくあのドレスを美沙希に貸してしまった。お父様が二十一歳の誕生日に贈ってくれた、世界に数着しかない限定品。中宮家の後継者である証とも言えるドレスだ。その結果、彼女は慈善パーティーで主役のように振る舞い、私は愚か者のように部屋の隅で彼女に拍手を送る羽目になった。
いい子?
土屋恵司、今度の人生では教えてあげるわ。本当の意味で「いい子」にするとはどういうことか。
私はスマホの電源を切ると、ベッドの上に乱暴に放り投げた。
「赤山」
鏡越しに彼を見る。
「車を回して。プライベート射撃場へ行くわ」
「御意」
「それと」
私は振り返り、彼の顔をじっと見据えて一言一句区切るように告げた。
「今日は貴方が相手をして。……手取り足取り、指導してもらうわよ」
