第3章

 蒼真の顔からさっと血の気が引き、幽霊のように蒼白になった。

「専属の医療チームを呼べ! 今すぐだ!」蒼真は護衛たちに向かって怒号を飛ばした。

 沙織は瞬き一つせず、冷酷に嘲笑った。

「まだ温室育ちの繊細なお花を気取っているの?」沙織は綺麗に整えられた爪を眺めながら鼻で笑った。

「その口を閉じろ」蒼真が低く唸った。

 沙織は口角を上げた。

「彼はビジネス界を血祭りにあげてのし上がってきた、頂点に君臨する狼よ。四六時中甘やかして守ってやらなきゃいけないような壊れやすいおもちゃなんて、遅かれ早かれうんざりされるに決まっているわ」

 ガシャァッ!

 耳を劈くような破砕音が響き渡り、部屋は水を打ったように静まり返った。

 蒼真が重厚なクリスタルグラスを沙織の足元へ力任せに叩きつけたのだ。鋭い破片が散弾のように床一面へ飛び散った。

「出て行け」蒼真の声には、背筋が凍るような絶対的な殺意が滲んでいた。

 宴会場の誰もが息を呑んだ。居並ぶ社交界の名士たちは小刻みに震えている。

 沙織の顔が怒りで土気色に変わった。彼女はブランド物のバッグをひったくるように掴み、足音荒く立ち去ったが、その間際、私へ向けて最後の挑発的な鋭い視線を投げつけてきた。

 晩餐会は再び、息が詰まるような偽りの平穏を取り戻した。だが、私の全身は氷のように冷え切っていた。向けられる愛想笑いのすべてが、まるで頬を張られているかのように痛かった。

「大丈夫よ」私は嘘を吐き、狼狽して伸ばされた蒼真の手を押し除けた。

「少し、お手洗いへ行ってくる」

 視界が滲むのを感じながら、ホールを歩き出した。だが、廊下の突き当たりには、沙織が待ち構えていた。

「さっき彼があなたを庇ったのは、愛ゆえだとでも本気で思っているの?」沙織は毒蛇のように私の行く手を塞ぎ、冷たく言い放った。

「どいて」私は短く命じた。

「あなたはただの、世間に向けた弱点アピールにすぎない! ただの盾よ!」彼女は苦々しく笑い声を上げた。

「もし今夜、私の娘の心臓の容態が悪化したら、彼はためらうことなくあなたを捨てて、私たちの元へ駆けつけるわ」

 私は彼女をじっと見据えたまま、血が滲むほど強く手のひらに爪を立てた。

「賭けてみる?」沙織はさらに一歩近づき、挑発してきた。

 私は答えなかった。彼女を喜ばせるような真似はしたくなかったのだ。私は無理やり彼女の横を通り抜け、足早に自分の席へと戻った。

 席に着いたその瞬間、蒼真のスマートフォンが鳴った。

 画面を確認した蒼真の顔が、瞬時に死人のように青ざめる。その瞳には、隠しきれないほどのパニックが溢れ出していた。

 彼は慌てた様子で私の額に唇を落としたが、肌に触れるその唇は微かに震えていた。

「会社の基幹データベースがハッキングされたらしい」蒼真は淀みなく嘘を吐いた。

「俺が直接対処しなければならない。すぐに戻るから」

 私は彼の袖を掴んだ。指先が、すがりつくように生地を握りしめる。

「行かないで」

 それは私の最後の懇願だった。私を選んでくれるよう彼に与えた、正真正銘、最後のチャンス。

 蒼真の瞳の奥で、激しい葛藤が揺れ動いた。

 しかし、彼は私の手を優しく払い除けたのだ。

「日暮れまでには必ず戻る」彼はそう誓った。

 そして、足早に去っていった。彼は、あちらを選んだのだ。

 三十分後、私のスマートフォンが短く震えた。

 沙織からの音声ファイルだった。

 再生ボタンをタップする。

『あの数十億ドル規模のスマートシティに、彼女の名前を付けたわよね』沙織の声がスピーカーから響く。

『じゃあ、私たちの娘の未来はどうなるの?』

 続いて聞こえてきたのは、蒼真の声だった。ひどく疲れ切ったような、低く、そして残酷なまでに現実的なその声。

『海外コンソーシアムの無記名株式の三十パーセントを、莉子の信託財産に譲渡する』彼はそう言った。

『たとえ俺がいなくなったとしても、あの子が一生不自由なく暮らしていくには十分すぎる額だ』

 彼は少し間を置いた。

『ただ、このことで琴音を刺激するような真似だけはするな』

 直後、沙織から短いメッセージが届いた。

【ねえ、わかった? あなたの夫が命懸けで築き上げた帝国でさえ、私たちの娘が必要とすれば、彼はいとも簡単に差し出すのよ。あなたの完全な惨敗ね】

 私はその場に凍りついた。共に過ごした甘い記憶も、交わした口づけも、誓い合った約束も、すべてが音を立てて灰燼に帰していく。私の生涯を懸けた愛は、完全なまやかしだったのだ。

 その夜、蒼真はひどく疲れ切った様子で、微かに病院の消毒液の匂いを漂わせながら帰宅した。私は壁に顔を向け、ただひたすら眠っているふりをした。

 翌朝は、私たちの結婚記念日だった。

「休暇で、海辺の断崖にあるヴィラへ行ってくるわ」朝食を取りながら、私は彼に淡々と告げた。

 突然の旅行の提案に、蒼真は驚いたように顔を上げた。

「あなたが私のために特注してくれた自動運転車で行くつもりよ」私は言葉を継いだ。

「私一人でね」

 蒼真の瞳に、強い罪悪感がよぎった。隠し事への後ろめたさからか、彼は無理に同行しようとは言い出せなかった。

「気をつけてな」彼は優しく囁き、私の頬に口づけようとした。私はすっと顔を背けた。

 玄関のドアを開ける直前、私は黒くて小さなフラッシュメモリを彼に手渡した。

「暗号化されたクラウドドライブのキーよ。ちょうど四十八時間後にロックが解除されるわ」私は穏やかな声で言った。

「私からあなたへの、記念日のプレゼント」

 彼は嬉しそうに微笑んだ。それが自分への死刑宣告だとは、微塵も気づかぬまま。

 数時間後。

 蒼真は超高層ビルの最上階にある役員会議室に座り、自身の帝国を指揮していた。

 突如として、スマート車両管制センターから発せられた血のように赤い緊急アラートが、会議の空気を切り裂いた。システムを通じて、けたたましいサイレンが鳴り響く。

 両開きの扉が乱暴に開かれ、筆頭アシスタントが自身の足にもつれるようにして部屋へ飛び込んできた。

「神崎社長!」アシスタントは激しく震え、息を呑みながら叫んだ。

「奥様のお車が……!」

 蒼真は勢いよく立ち上がった。心臓が冷たい胃の底へと落ちていく。

「どうした!」

「海上の大橋で暴風雨に煽られ、進路を大きく逸脱しました!」アシスタントは悲鳴のような声を上げた。

「そのまま断崖から百メートル下の、真っ暗な岩礁地帯へと転落を……!」

 蒼真の指先から、コーヒーカップが滑り落ちた。

 ガシャンッ。

「たった今、レスキュー隊から報告が入りました」アシスタントはボロボロと涙を流し、咽び泣くように言葉を絞り出した。

「生存率は、ゼロです」

 蒼真の顔から、一切の血の気が失せた。

「……今、なんと言った!?」

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