第1章

 彼との婚約は、この十年間、一度も果たされることがなかった。

 両親はあのクルーザー事故で彼の一家を救い、死の間際に私を彼の家族へと託した。その恩に報いるため、私たちは毎年市役所へ足を運び、婚姻届を出そうとしてきた。

 十回の試み、その全てが失敗に終わった。

 エレベーターの閉じ込め、食中毒、強盗への遭遇、そして交通事故……。肝心な時には必ず私が傷を負い、彼は決まって無傷だったのだ。

 今日がその十回目。トラックが助手席を直撃し、私は窓ガラスに額を打ちつけたというのに、彼はすでに道路の反対側へと駆け出し、あの女をその腕に抱きしめていた。

 診察を終え、彼を探そうとした私が病院の廊下で耳にしたのは、秘書のこんな声だった。

「社長、トラック運転手への根回しは完了しました。金は約束通り口座に振り込まれます……ですが、本当にこれで桜庭さんに顔向けできるのですか。十年ですよ、毎年こんなことを——」

 将吾の声には、深く重い疲労が滲んでいた。

「他にどうしようもないだろう。十年前、彼女の両親に命を救われたのは事実だ。だが、俺が愛しているのは愛美なんだ」

 私は手元にある診断書へと目を落とした。筋萎縮性側索硬化症——末期。

 どうやら私は、ずっと嘘と結婚しようとしていたらしい。

 市役所に向かって車を走らせていた時のことだった。突然、横断歩道に愛美が姿を現し、何かに躓いたようにたたらを踏んで地面に倒れ込んだ。将吾は急ブレーキを踏む。

 直後、突っ込んできたトラックが運転席を避け、助手席めがけてその車体を叩きつけてきた。

 咄嗟に腕で顔を庇うのが精一杯で、額はサイドガラスに激突した。

 ひび割れた窓越しに、車を飛び出して道路の反対側へと走っていく彼の姿が見えた。愛美を抱き起こすその手つきは、この世の何よりも尊いものを扱うかのように慎重だった。

 最初に行き着いた救急車に、彼は彼女に付き添って乗り込んでいった。

 私は一人、二台目の救急車に這い上がるしかなかった。

 一通りの検査を終えて手渡されたのが、筋萎縮性側索硬化症の診断書だ。医師の言葉選びはひどく遠回しだったものの、その意味するところは明白だった。私は、もうすぐ死ぬ。

 せめて彼に慰めてもらいたい。そう思って事実を伝えようとした矢先、あの会話を聞いてしまったのだ。

 十年経って、ようやく合点がいった。なぜ毎回私だけが傷つく羽目になるのか。運が悪いわけでも、相性が最悪なわけでもない。誰かが裏で糸を引いていたのだ。

 将吾は毎回無傷で生還し、痛い思いをするのはいつだって私だけ。

 ただの偶然だと信じていた。

 けれど今ならわかる。この世界に、そんな都合のいい偶然などあるはずがない。

 この十年間、私はずっとウェディングベルを待ちわびているつもりだった。だが実際に待っていたのは、死刑判決に他ならない。

 私は診断書をそっとしまい込み、きびすを返して病室に戻ると、スマートフォンを取り出した。

 幸いにも、事故の話が耳に入った瞬間に録音アプリを起動しておいた。メールソフトを開き、文面を練り始める。

 十年に及ぶ救急外来のカルテ、手術同意書、入院費の請求書、それにレントゲン写真……。すべての書類が、この婚約が最初から大きな間違いであったことを如実に物語る証拠だ。

 宛先の欄に、将吾の祖父のメールアドレスを打ち込む。

 将吾の祖父は長年海外の荘園で暮らしており、国に戻ってくることは滅多にない。あのクルーザー事故は私の両親のみならず、彼の息子夫婦の命をも奪い、生き残ったのは将吾ただ一人だった。一人息子を失った祖父は、わざわざ病院まで私を訪ねてきて、私の手を握り締めながら一生面倒を見ると約束してくれたのだ。

 あの方は約束を守る人だ。残念ながら、その孫は違ったようだけれど。

 メールの本文には、たった一言だけを添えた。

「両親の遺品を返していただいて、婚約を解消したいと思います」

 送信ボタンをタップした瞬間、ひどく奇妙な安堵感に包まれた。

 この十年間で初めて、私は自分の意志で手放すことを選んだのだ。

 まもなくしてスマートフォンが震え、将吾の祖父からのビデオ通話が着信した。

 応答ボタンを押す。画面越しの彼は私の額のガーゼに目を留め、その眼差しに微かな痛みを走らせた。

「紗枝、一体何があったんだ」

「メールをご覧いただければ、すべてわかります」

 重い沈黙が長く続いた。ファイルを開く微かな音と、時折漏れる低い溜め息だけが響く。録音データが半分まで再生された頃、将吾の祖父は眼鏡を外し、手の甲で顔を覆った。

「十年……」

 その声はひどく掠れていた。

「この十年間、私はてっきり、お前たちがまだ心の準備ができていないだけだと思っていた。将吾がこんな真似をしていたとは」

「今、知っていただけましたから」

「ご両親は将吾だけでなく、私の息子夫婦までも身を挺して救おうとしてくださったのに……」

 将吾の祖父は深く目を閉じた。

「それなのに今度は、我々氷室家が彼らの信頼を裏切ってしまった」

「おじいさまを責めるつもりはありません」

 それは偽りない本心だった。この方はずっと私に優しく、毎年欠かさず電話をかけてきては生活の様子を気にかけてくれた。孫が裏で何を企んでいるかなど、知る由もなかったのだ。

「婚約の件は、私が責任を持って処理しよう。君はゆっくり傷を治しなさい」

 通話が切れたのとほぼ同時に、病室のドアが押し開けられた。

 将吾と愛美が入ってくる。彼女は足首に絆創膏を貼り、目を赤く腫らしながら将吾の胸に寄り添っていた。

 彼の視線が私の額のガーゼに落ち、不快げに眉が寄せられる。

「検査の結果はどうだった」

 私は横を向き、この十年間愛し続けた男をじっと見つめ返した。その目鼻立ちは相変わらず整っているけれど、彼の瞳の奥に、もう私の姿は微塵も映っていない。

「ただの擦り傷よ」

 私は無理に笑顔を作ってみせ、枕の下の診断書をさらに奥へと押し込んだ。

「たいしたことないわ」

 彼が口を開き、何かを言いかけたその時——。

 愛美が突然、泣きそうな声で口を挟んできた。

「ごめんなさい、紗枝さん。全部私のせいなの。私が急に道に飛び出したりしなければ、あなたが怪我することもなかったのに……」

「彼は私のために、もう十分すぎるほど時間を無駄にしてしまったわ。あなたたち二人で、早く市役所へ行ってきて。ここから二人の幸せを祈っているから」

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