第2章

 愛美は将吾の腕を押し返し、今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙を瞳に浮かべていた。

「本当にごめんなさい。全部私のせいなの。私がこんなこと……」

 将吾は彼女をぐっと抱き寄せ、その背中を優しく撫でた。

「馬鹿なことを言うな。お前は悪くない。彼女の運が悪かっただけだ。お前に怪我がなくてよかった」

 そして私の方へと振り返る。その顔には、ありありと苛立ちが浮かんでいた。

「検査結果に大した異常がなかったのなら、大人しく休んでいろ。今のその体じゃ役所にも行けないだろう。体調が戻ってからだ」

 体調が戻ってから。

 けれど、私の体が元通りになることなど、もう二度とないのだ。

 将吾の胸に顔を埋めた愛美をじっと見つめる。彼女の口角がわずかに吊り上がり、その得意げな笑みは一秒にも満たないうちにふっと消え去った。彼女は将吾の腕から抜け出すと、ベッドサイドのテーブルへと歩み寄る。

「お白湯、入れるわね。きっと辛いでしょうから」

 水差しを手に私へと近づいてきた彼女は、あと一歩というところで突然手首を不自然に返し、熱湯を勢いよくぶちまけた。その大半が、彼女自身の腕へと降りかかった。

 甲高い悲鳴が病室に響き渡った。

 将吾は弾かれたように駆け寄った。愛美の肩を抱き留め、赤く腫れた肌を確かめると、彼女を背後に庇うようにして私へ猛烈な怒りを向けた。

「愛美はお前を看病しようとしてくれたんだぞ。その好意すら踏みにじるのか! 事故に遭ったからって、彼女に八つ当たりしていい理由にはならないだろう!」

 私は口を開き、そのコップには指一本触れていないと告げようとした。

 だが、彼が私に弁明の隙を与えることはなかった。

「お前の両親はあんなにも善良で、俺のために命を懸けてくれたというのに。それなのにお前はどうだ? 紗枝、お前は彼らの犠牲に報いるだけの生き方をしているのか?」

 その言葉は鋭利な刃となって、私の心臓を正確にえぐった。

 彼が愛美を抱き抱えるようにして立ち去り、背後で扉が冷たく閉まるのを見届ける。私はティッシュを手に取り、シーツに染み込んだ水滴を静かに拭き取った。

 どの口が、私の両親の名前を出せるのか。

 もし彼らが、自分たちの命と引き換えに救い出したのがこんな男だったと知ったら、あの日差し伸べた手を後悔するだろうか。

 十年前の夏、私はまだ桜庭家の箱入り娘だった。両親は小さな投資会社を営んでおり、大富豪とまではいかないものの、私が不自由なく育つには十分な暮らしぶりだった。その頃の私は、氷室将吾のことなど見たこともなかった。家同士で多少の取引はあったようだが、それはあくまで大人たちの世界の話だ。

 あの日を迎えるまでは。

 あの日、やけに日差しが眩しかったのを覚えている。家に帰ってきたのは両親ではなく、二つの骨壺だった。一夜にして会社は破産を宣告され、家の前には債権者が群がり、かつて笑顔で「桜庭さん」と呼んでくれた人々は潮が引くように消え去った。もぬけの殻となった豪邸の片隅にうずくまり、母のストールを抱きしめながら、私は声が枯れるまで泣き続けた。

 そんな私を見つけ出してくれたのが、将吾の祖父だった。老人は私の手を引き、氷室家のお屋敷へと連れ帰ってくれたのだ。そのとき初めて将吾と出会い、彼は私にティッシュを差し出しながら「きっと良くなるよ」と優しく声をかけてくれた。あの頃の私は、彼をいい人だと思い込んでいた。

 それ以来、私は彼の後ろをついて回る影のような存在になった。将吾の祖父は両親への恩返しだと言って、私たちに婚約を取り決めた。けれどこの十年間、私が役所の門をくぐることは一度としてなかった。

 枕の下から、あの診断書を取り出す。

 もう少しだけ、長く生きたい。将吾の気持ちが変わるのを待つためでも、こんな馬鹿げた婚約を果たすためでもない。私にはまだ、やり残したことがあるからだ。両親の遺品を取り戻し、この絶望的な婚約に終止符を打ち、この狂った日常から抜け出さなければならない。

 しかし、居候の身で生きてきたこの数年間、私に貯金などあるはずもなかった。治療費は天文学的な数字で、到底払える額ではない。唯一の手段は、将吾に金を借りること。たとえ彼が首を縦に振らないと分かっていても。

 数日後に退院した私は、その足で氷室グループ本社へと向かった。

 受付の女性は私に気づくと、どこか気まずそうな愛想笑いを浮かべた。

「桜庭様、上の階へお見えになったことをお伝えいたします」

 最上階でエレベーターを降りる。ガラス扉の向こうには全面の窓が広がり、眼下に煌びやかな夜景が広がっていた。将吾は窓際に立ち、背後から愛美をすっぽりと抱きしめながら、二人で街の灯りを見下ろしている。

 私はドアをノックした。

 将吾は振り返り、私を見るなり一瞬ハッとして、愛美を離してこちらへ歩いてきた。

「どうしてここへ? 体の具合はどうなんだ? もう退院したのか」

 その響きにはわずかな驚きが混じっていたが、大半は事務的なものだった。

「もう大丈夫よ」

 私は深く息を吸い込んだ。

「お金を貸してほしくて来たの。治療費用として。必ず返すから」

 将吾は微かに眉をひそめると、執務机へ向かい腰を下ろし、それ以上私を見ようとはしなかった。

 愛美が近づいてきて、まるで子供をあやすような甘い声を出した。

「治療費? でもね紗枝さん、あなたはこの十年間彼のお家に住まわせてもらって、衣食住すべて氷室家のお金で賄ってきたじゃない。ご両親のお葬式だって、お祖父様が出してくれたのに……今さらまだお金を借りるつもりなの?」

 彼女はそこで言葉を切り、その瞳に侮蔑の色を閃かせた。

「それとも、彼に近づいたのは最初からお金が目当てだったのかしら?」

 将吾が彼女を咎めることはなかった。私の視線を避け、冷え切った声で告げる。

「愛美の言う通りだ。金のことなら自分でどうにかしろ。婚約さえ果たせば、俺のお前の両親に対する責任も終わるんだ」

 彼の腕に巻かれた腕時計が目に入る。それは、父が残した唯一の遺品だった。

「もう、待たなくていいわ」

 私の声は、ひどく掠れて軽かった。

 将吾が顔を上げる。その瞳に一瞬だけ戸惑いがよぎったものの、すぐに冷ややかな嘲笑へと変わった。

「脅しのつもりか? お前の両親が俺を救ったからといって、俺が一生お前に負い目を感じて生きなきゃならないとでも?」

 彼は内線ボタンを押し、警備員を呼んで私をつまみ出させた。

 その夜、スマートフォンの画面にオークションハウスのニュースが通知された。

 氷室将吾が、白石愛美のために19世紀のサファイアのネックレスを1200万円で落札した――という見出しだった。

 1200万円。

 病状の進行を遅らせ、今のように生きる資格すら惨めに乞い願うことなく、最後まで尊厳を保って生き抜くには十分すぎる金額だ。

 スマートフォンの電源を落とす。真っ暗になった画面に涙がこぼれ落ち、ぼんやりとした光の輪を滲ませた。

 少なくとも今、私はようやくすべてを手放すことができる。

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