第3章
あの日を境に、私から彼に連絡を取ることは二度となかった。
彼もそれを望んでいるようだった。SNSには毎日のように新しい写真がアップされる。チャリティーディナー、アート展のオープニングパーティー、プライベートゴルフ場。スポットライトの下で、彼女はいつも彼の腕に寄り添っていた。
コメント欄は祝福の言葉で溢れかえっている。彼に「婚約者」という名ばかりの存在がいることなど、誰一人として触れようとはしなかった。
私は自室のベッドに横たわり、スマホの画面をぼんやりと見つめていた。この部屋は別荘の二階の突き当たりにあり、主寝室のエリアからは遠く離れている。この家に来て十年になるが、ここが私の本当の居場所になったことは一度もなかった。
実際のところ、愛美が帰国したのはここ数年のことだ。
それまで、彼女はずっと海外に留学していた。私がこの家に引き取られたばかりの頃は、彼女の存在すら知らなかったのだ。当時の将吾は私に対してまだ礼儀正しく、夕食の時にたまに「もう慣れたか」と声をかけてくれることもあった。私は、時間が経てば、いつか本当に家族になれるのかもしれないと錯覚していた。
三年前、彼女が戻ってくるまでは。
あの日のことははっきりと覚えている。私と彼が市役所から帰ってきたときのことだ。またしても試みは失敗に終わった。その時はエレベーターが故障し、私は四時間も閉じ込められてしまったのだ。やっとの思いで家に帰り着くと、リビングのソファには愛美が座っていた。手にコーヒーカップを持ち、優雅に、そして余裕のある笑みを浮かべて。彼女の姿を視界に捉えた瞬間、将吾は全身を強張らせて立ち尽くした。
彼女が彼の大学時代の恋人だったと知ったのは、その後だ。二人の絆は深く、理由は分からないが、結局愛美は海外へと飛び立ってしまったらしい。そして私が現れたのは、ちょうどその空白の期間だった。
そう考えると、他人の恋愛に割り込んだのは、むしろ私の方なのだ。
彼自身も言っていた。私に対する感情はただの恩義であり、愛情を抱いているのは愛美だけだと。
私はスマホの電源を落とし、枕に顔を埋めた。ALSの症状は、日に日に進行している。昨日は水の入ったコップを持とうとした時、突然指先の感覚が失われ、熱湯を床にぶちまけてしまった。一昨日は階段を下りる際、右脚からふっと力が抜け、危うく転げ落ちるところだった。
自分の身体が少しずつ私を裏切っていくのを、はっきりと感じている。
数週間後の、ある日の午後。私は両親が残した古い写真を整理していた。
不意にドアが開け放たれた。
入り口に立っていたのは、ダークスーツに身を包んだ将吾だった。目の下には濃い隈ができ、ひどく寝不足であるかのように見えた。
「病気も良くなったことだし、早く済ませてしまおう」
彼は事務的な口調で言い放った。
「明日の午後二時、市役所で待ち合わせだ」
私は彼を見つめたまま、すぐには返事をしなかった。
病気が良くなった? 私はまともに立つことすらできないというのに、彼は私が治ったと思っているのだ。
「行かないわ」
私の声はひどく掠れていた。
「私はただ、両親の遺品を返してほしいだけ。時計とネックレス、まだあなたが持っているでしょう」
彼は眉をひそめた。
「また何の駆け引きだ? 焦らしているつもりか」
彼は冷たい鼻で笑うと、部屋に踏み込み、私を外へ引っ張り出そうとした。
私は一歩後ずさり、ナイトテーブルからスマホを手に取った。画面には、この数週間の彼と愛美に関するニュースが映し出されている。
「二人のことは全部知ってるの」
私はスマホの画面を彼に向けた。
「もうこんな風に自分を誤魔化す必要なんてない。あなたが愛しているのは彼女で、結婚したいのも彼女でしょう。もうあなたの邪魔はしない」
彼は画面を数秒間見つめ、長い沈黙に陥った。
やがて、彼は深く息を吐き出した。
「あれはただの芝居だ」
その声には疲労が滲んでいた。
「祖父は海外にいる。俺が約束を果たしている姿を、祖父に見せる必要があったんだ。この数週間彼女のイベントに同伴したのは、きちんとした別れを告げるためだ」
彼は顔を上げ、その瞳には微かな懇願の色が浮かんでいた。
「俺はずっと恩義を重んじてきた。君のご両親に救われた命だ、忘れるわけがない。婚約の件は……」
その言葉が終わるよりも早く、彼のスマホが唐突に鳴り響いた。
通話に出た将吾の耳に、秘書の切羽詰まった声が飛び込んできた。
「氷室社長、大変です! 白石さんが、社長と桜庭さんが市役所に行くと聞いて、今、本社の屋上に……飛び降りると言っていて……警備員も止められません、社長が来ないと降りないと言っています!」
スマホが彼の手から滑り落ちそうになった。
彼の顔から一瞬にして血の気が引き、すべての理性がその瞬間に吹き飛んだ。
「一体彼女に何をした!?」
彼は私の手首を乱暴に掴んだ。立っていられないほどの強い力だった。
「よくも彼女を追い詰めたな!」
「私は何も……」
「黙れ!」
私の弁明など聞く耳を持たず、彼は無理やり私を部屋から引きずり出した。ただでさえ言うことを聞かない私の脚は、彼に引っ張られるがまま、半ば引きずられるようにして階段を下りていった。
車はグループの本社ビルまで猛スピードで駆け抜けた。将吾は私をエレベーターに押し込み、最上階のボタンを叩き込むように押した。
彼は私の手首を死に物狂いで握り締めている。その掌は汗に塗れ、呼吸は荒かった。
エレベーターのドアが開く。
屋上に吹き荒れる風は強く、目を開けていることすら困難だった。
愛美は屋上の縁に立っていた。柵まではほんの一歩の距離しかない。顔は涙で濡れ、強風に煽られた髪が乱れ、その身体は今にも崩れ落ちそうに揺らいでいた。
私たちを見た瞬間、彼女は半歩後ずさった。
踵が屋上の縁に触れる。あと少しでも下がれば、そのまま真っ逆さまに落ちてしまう。
